一ゲーム制作者の立場から『Angel Beats!』を考えてみた
- nyaa_toraneko
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「オタク大賞R8」 行ってきた。麻枝信者の前田久氏が『AB!』を語るという趣旨の講演なので、聞いているこちらも幾分古典落語で言うところの『酢豆腐』を楽しむ心持ちになるのはやむを得ないが、そのあたりは残り3方のトークバランスもあって、ちゃんと芸になっていたのは見応えがあったと思う。
2010-09-11 23:59:53その前田氏にしても、ガルデモの空気っぷりに関してはフォローの理屈が思い浮かばなかったとのことで、ちと残念。ここは『毒を喰らわば皿まで』の勢いでキレた意見をぶちかまして欲しかったかな。入場料と酒込みで5000円ほど払いましたが、なかなか面白い集いでした。ライターの皆様、お疲れ様です
2010-09-12 00:03:49昨日の『オタク大賞R8』で聞いた話で一番面白かったのは、確か志田氏の発言だと思うが「第10話の脚本を読んだが、意外と書き込まれていて情緒深かった」というくだり。
2010-09-12 14:24:07この発言自体にそれほどの事実誤認はないと思われるので、このことから思うのは、まさにビジュアルノベル形式のエロゲーにおける『テキスト』と、それ以外の映像作品における『シナリオ』、さらには通常のゲームにおける『テキスト』に求められる要件は本当に別物なのだということだ。
2010-09-12 14:26:48ものすごくざっぱな分け方をしてしまえば、ビジュアルノベル形式のエロゲーにおける『テキスト』は例え冗長であっても『長い』ことが売りになっており、しかもその長さを最大限使った情緒の出し方が市場的に求められている感がある。
2010-09-12 14:29:57一方、それ以外のメディアでは、大抵必要な尺というものが事前に決まっており、ライターはその尺の中に十分の収まるように内容を詰め込むことが要求される。その究極の作法がシド・フィールド流のハリウッド式シナリオ術だ。映像作品向けのシナリオは、極力この方式にならったほうが分かりやすくなる。
2010-09-12 14:32:57通常のゲームの場合、求められるテキストはゲーム内のリソースとしてのテキストである。それはストーリーのある場合でも同じで、そのテキストはしばしば音声リソースに結びついている場合がほとんどだ。
2010-09-12 14:34:50ゲーム向けテキストの場合、シド・フィールド流のテクニックは必ずしも必要ではないが、それでもそのテキストが音声リソースと結びついている場合、どのくらいのテキスト規模になるかはメディアの収録容量との兼ね合いで事前にある程度決まっているので、無制限に冗長なテキストを書くわけにはいかない
2010-09-12 14:36:37したがって、通常のゲームにおける『テキスト』でも効率よく演出をするために、その必要な尺に収まるようにエピソードを配置すべくライターに工夫をしてもらうことになる。
2010-09-12 14:39:10実際、僕の作っているゲームでも、オチまでの完全なプロットを作成した後、各ファイルに何を書くべきかの詳細な構成表を作り、平行してシナリオフローを作成する。このフローを作成する最中に全てのフラグ、必要なイベントの配置、新たにプログラムが必要な演出命令等は全部発注されるので(続く)
2010-09-12 14:41:05事実上、シナリオフローが完成した時には、ディレクターの頭の中ではほぼゲームは完成していることになる。後は実際に仕上がってきた素材を組み込みながら、調整していくのがメインの作業となる。
2010-09-12 14:42:28さて一方、映像作品としての『シナリオ』に求められるのは、各台詞の内容や言葉回しのクオリティの高さはもちろんだが、それ以上に重要なのは客がそのストーリーを理解できるように、各イベントが十分に配置されているかどうかだ。
2010-09-12 14:44:22文章で読んだときには十分情緒があったものを映像化した結果、その情感が十分に出ていないというのは、おそらくシナリオ上でその情感を伝えられるだけの十分なイベント配置がなされていないのと同時に、そのイベントに十分な尺が振り分けられていないからではないか、という推測は容易にできる。
2010-09-12 14:47:42実際、『AB!』10話を見終わってポカンとするのは、よく言われている「結婚してやんよ!」のくだり以上に、冒頭の焼却炉の前で音無と奏が次のターゲットとしてユイを選ぶくだりと、結局のところこの回でユイはこの世界を去るにも関わらず、後半一切のガルデモパートが出てこないことである。
2010-09-12 14:50:02おそらくこのエピソードがそれまでのKeyのゲームでの場合のように、10時間を費やして語られていたとしたら、アニメ脚本とまったく同じ構成であってもユーザーは納得した可能性が高い。
2010-09-12 14:51:51何故かと言えば、10時間このネタを続けられた時点で、そもそもユイがガルデモに賭けていた意味はユーザーの頭から消えてしまい、むしろユイのために「10時間以上も」一緒に過ごしてやった音無(=プレイヤー)との歴史のほうが、プレイヤーにとっては価値あるものにすり替わるからである。
2010-09-12 14:54:47そういう意味では、「ユイがガルデモに寄せる生き甲斐」というのはあくまで「設定」であって、それは作り手側がユーザーに押しつけるものとも言える。それに対し、「ユーザーがユイと過ごす10時間」は例えそれが単なるバッティング練習であっても、目の前で繰り広げられた確固とした「経験」だ。
2010-09-12 14:59:58通常ならこの「設定」の十分な説明をする中で、その「設定(あるいはキャラの初期状態/超目的と言っても良い)」が最終的にどのような結末を迎えるかを描ききることが「物語」作劇の中心にあるのだが、(続く)
2010-09-12 15:02:46ここでそのような「設定」の説明に時間を費やす以上にユーザーとの「経験」を重視し、その積み上げてきた「時間」を担保とし一気に押し切ることで感動を誘うというのが麻枝作品の根本だとするならば、確かに一定の尺があるアニメ作品として最初に商品化すること自体にムリがあったのは否めない。
2010-09-12 15:06:52なるほど、そう考えると2ちゃんなどでよく議論になっている、『AB!』に対する擁護意見とアンチ意見がまったくかみ合わないのも理解できる。その両者はどちらも正しいものであり、どっちがより優れているとは言い切れないからである。むしろ分野が違う議論を同時に俎上に載せてはいけないだろう。
2010-09-12 15:08:45そういう意味では、徹底的に麻枝信者の立場を貫いて『AB!』を擁護した前田久氏は十分その仕事をしたのだろう。少なくとも、彼の言っている矛盾点に対する回答は説得力はなかったが、彼が何故そう感じてしまうのかを通じて、『AB!』が好きな人の感じ方を理解することが出来たのは収穫だった。
2010-09-12 15:10:50そう考えると、『AB!』のアニメ化で一番よいやり方は、朝のNHKの連続TV小説形式だったのではないか? つまり15分枠を月~金連続で延々1年間やるという方式である。僕の勘では、おそらくこの形式が麻枝脚本には一番あっている感じがするのだが、どうか?
2010-09-12 15:26:03