自分は海を知らなかった。知らないものでも見てきたように歌うのが詩人であろう。それならば、知らないものを歌うことを禁じられたこの身はもう、詩人ではないのかもしれない。禁じたその人はもう、とうに亡いが。
2010-09-14 17:52:52初めて見た海は、澄んでもいなければ空のように青くもなかった。自分は少し落胆したのかもしれない。だってそれは、案外森に似ていた。何もかも飲み込んで隠してしまうような色。濁った、青と緑と灰のあわい。
2010-09-14 17:56:55――ああ。「結局、歌は聞けなかったな」いにしえの人魚のこえ。狂気が産んだ凶器。彼女が何を歌っているのか、……なにを識っていたのか、興味がなかったといえば嘘になる。「でもそしたら、泣いちゃった子はあれだけじゃ済まなかったかもしれないなぁ……」失礼な想像を溜息に乗せて、ゆるく笑った。
2010-09-14 18:04:12「お前は! これを売るつもりか?! 何考えてんだ!」……反省しなけりゃいけないところだったのかもしれない。少なくとも尋き方を。でもそれより前に笑いがこみ上げてきて、それと一緒に口は動いた。
2010-09-14 18:16:44「や、だって。女の子に贈るなら、価値を知っとかないとでしょ?」相手は剥いていた目をまたたくと、少しごにょごにょ言った末にだまった。呆れられたのかもしれない。そしてそれも、なんだか悪くないのだった。
2010-09-14 18:23:42贈るより贈られる側だった。喜んでみせれば相手も満足する。だが、契約が切れた後、食費に換えることができることが一番のメリットだったかもしれない。……こんなことを言ったら、やっぱり彼らには怒られるか呆れられるかするのだろう。
2010-09-14 18:39:10そうやって今、手元に残ったものはひとつもない。ただ、いつだったか荷物の底から出てきた耳飾りだけ、売る気にならずに身につけていた。青と緑のあわい。
2010-09-14 18:41:39じきに加工屋は見つかった。太い腕と指の人間の親父が、繊細な見本を並べている。そのギャップが気に入った。「女の子に贈る、とな。じゃあ何か文句を刻もうか?」「文句、って?」「そりゃあ、兄ちゃんが考えるんだよ。オーソドックスなんだと、愛をこめて、だとかだな」
2010-09-14 18:48:06「愛か……」つい先だっても聞いたことだ。あの人魚が言っていた。そして今の自分には、歌う資格がないもの。金で売れると信じていたもの。
2010-09-14 18:50:39たくさんのレパートリーを仕込み、同時に自由に歌うことを禁じたあの人は、他のいろんなものと同じように愛を歌うことも禁じた。それを知るまで歌ってはいけない、らしい。
2010-09-14 18:53:30もういない人だ。契約は切れている。だが、それでも言い付けを破る気にはなれなかった。従っているのは楽だ、……名前も知らない相手だが。
2010-09-14 18:55:22ああ、……名前は聞いておいたほうがよかったのだろうか。あの人魚に、彼は名前を聞いていた。それはなぜか、あんたの話を聞くことに決めた、と宣言しているように聞こえた。俺も、律儀にあの人の言ったことを守るくらいなら、きっと。
2010-09-14 18:59:05「や、愛とかはいらないよ」……商売道具にできると思ってたんだけどなぁ。どうやらもっと複雑で、めんどくさいものらしい。「名前とかも別に。恥ずかしいし?」しれっと続けたら親父に大いに笑われた。
2010-09-14 19:02:16「他にゃあないのかい? その、耳に付けてる石もいいもんじゃねぇか。サービス価格でちょちょいといじってやろうか」言われて、ついそこに手をやった。「や、これは……」
2010-09-14 19:12:44「忘れないためのもんだから。いいや」ふうん、と親父は曖昧な説明にも訝しがらずに頷いた。訳ありの客の相手には慣れているのかもしれない。そう、この二つの石は名前と同じ、俺が馬鹿だってことを思い出すためのものだ。
2010-09-14 19:16:19母親の顔は覚えていない。もしかしたら、身なりを整えるために覗きこむ鏡のなかに、ヒントが紛れ込んでいるのかもしれない。しかし、こちらは正真正銘見たこともない父親の影を除去する手間は実に面倒そうだ。
2010-09-14 19:19:41しかし妹の顔の、目の色だけは鮮明に覚えている。最後の数年は、まっすぐ目を見ての兄妹の会話なんてものもなかったのに。青と緑、そのあわい。
2010-09-14 19:22:40「わかった、意匠に注文はないんだったな」「うん、かっこよくしてよ」「任せとけ、最新流行の型に仕上げてやるぜ」「うん、期待してる」前金と笑顔を残して、店を後にした。風が昨日よりも涼しい、もうそんな季節だ。
2010-09-14 19:32:26きっと仕上がったアクセサリーは行く宛もなく、荷物袋の中に沈むのだろう。流行が終わる前に誰かに逢う、そんな奇跡を想像して、むしがいいとひっそり笑った。
2010-09-14 19:35:01