井泉水や一碧楼の自由律俳句は近代の申し子だけど、結局放哉や山頭火のような、求道的(宗教的)情操と私小説と同じ近代を生きる寂しさのコンテクストに乗った自己暴露が共感を呼んで世の中に受けた。これからの自由律もそうなのか、井泉水や一碧楼の換骨奪胎があるのか、まったく違う展開があるのか。
2013-06-02 22:28:21「私は此の話の初めに、多くの人々は自然という言葉を誤解していると云った、彼等(定型俳句側)は動揺している人生を離れた平静安穏なる天然界のみを自然だと思っている。天然界も自然の一つには違いない。それは自然が原始的な形で現われているという意味で自然の感じが強い(続く)」
2013-06-02 22:51:40「我等は外よりも内を見るべきである、凡ての視力を集めて自己の生その物を見るべきである、自己の内に自然を求めて行くべきである。之が最も確かな道である」引用終わり。自由律は最初から自己の内面を重視していたわけですね。
2013-06-02 23:06:41@F_set 訳書をだしていますよ。心酔している、といって良いと思います。たぶん、ああ、自分と同じ思いの人がいたのか、くらい。
2013-06-02 23:17:45@musashinohaoto でも不思議なことに井泉水は初期以降はあまりゲーテに言及していないんですよ。むしろ芭蕉に回帰してると言ってもいいぐらいで。
2013-06-02 23:19:45@F_set はい。井泉水は子規の仕事を受け継ぐ意識を持っていたと思いますが、初めから芭蕉を再評価するつもりでもあったでしょう。自分の詩はあくまで日本的でなければならないと思っていたでしょうし、そういう彼の先達は芭蕉しかいませんから。
2013-06-02 23:28:15@musashinohaoto ですね。芭蕉に対しても彼は「惜しかった」的な事を書いておりますが、そういう目で芭蕉の句を読むと、わかる気がします。言葉遊びと純粋な詩が混在してますから。
2013-06-02 23:31:50@F_set そう、ちょっと上から目線(笑)。そのへんは井泉水も発展史観の子で、芭蕉の切り取り方が近代的ですね。しかし年齢を経るにつれて自分と重ねている節があるような。
2013-06-02 23:36:28@musashinohaoto 確かに上から目線(笑) 彼の個人的な事情(奥さんとお子さんを亡くされた)も影響しているのでしょうね。人生の同一化。
2013-06-02 23:38:59@F_set はい。いかに個の魂を救済するか。時代の文学者のありかたとしては正しいと思います。しかし、井泉水個人のエグい面は「俳句研究」の追悼特集その他いろいろ読んでると感じますが、強力にエゴを出さなければああいう親分にはなれなかったでしょう。
2013-06-02 23:44:54@musashinohaoto それはそう思います。俳句に限らず、上に立つ者は清廉潔白ではいられないでしょう。ましてや「自己の内面」を見つめる者達の元締めなんですから。
2013-06-02 23:49:39@F_set さてそこで、井泉水の近代的論理と、その庇護下にあったからこその放哉と山頭火らを過去のものとして、これからの自由律はどう展開してゆくのか。あいにく自分では自由律はどうもうまく詠めないので、楽しみにしつつ出来る範囲で援護射撃するのみなんですけれども。
2013-06-03 00:00:41@musashinohaoto それが我々の課題ですね(笑) 我々に必要なものは自由律の視点だけではなく、定型の視点もだと思いますので、ただただ勉強あるのみです。また、圧倒的なテキスト不足も解消されなければなりません。援護射撃、よろしくお願い致します。
2013-06-03 00:05:48@F_set 本当に微力ながらの助太刀、で恐縮ですが(笑)。定型で言えば、岸本尚毅さんはよく野球でたとえるのですが、自由律は総合格闘技が向いてるかもなあ、と思ったりしています(井泉水は重箱と風呂敷でしたね)。所詮思いつきなんで、しばし考えてうまくいかなければ何も言いません(笑)
2013-06-03 00:22:24@musashinohaoto いえいえ、ありがとうございます(´∀`) いろんな例えがあっていいと思いますが(もちろん野球や総合格闘技も)、私は単純に定型と自由律を「両目」とみなしてます。どちらかの視点だけでは、俳句を片目で見ているに過ぎないと思います。
2013-06-03 00:27:52