河越夜戦の戦死者を弔うために富士塚が造られた?
wikipedia「河越城の戦い」https://t.co/jdvSpv2uFW によれば、「河越夜戦の激戦地と伝えられる東明寺(川越市志多町)の境内には、河越夜戦跡の碑が建てられ、将兵の遺骸を納めた富士塚が残る」という。
2013-06-15 17:16:59「東明寺△富士塚」でググっても、そこそこヒットする。https://t.co/rtuNLHjmgn 天文15年(1546)に行われた河越夜戦の死者を弔うために富士塚が造られた、ということが本当ならば、とても意義深い。
2013-06-15 17:20:36中世では、富士山の神は軍神だった。富士宮市の富士山本宮富士浅間神社は富士氏の城を兼ね、また武田家から奉納された武具も多い。また、特に山城に多いようだが、城の守り神として浅間社が祀られていた。太平山や唐沢山なんかがそう。
2013-06-15 17:29:08その文脈からすれば、戦死者供養のために富士山の神が祀られたということは十分あり得るし、またそれが塚であるということは、近世の富士講によるものに大きく先駆ける例であるということになる。
2013-06-15 17:31:15ここであえて解説しておくと、近世に富士講によって造られた「富士塚」とこの「富士塚」は全くの別物です。関係も無い。で、中世に造られて今も現存する富士信仰の塚というのは、今のところ知られていません。都内では駒込の富士塚が古いのですけど、あれとても近世初頭です。
2013-06-15 17:34:14しかし、ネットで調べてみて、明らかに不自然だったのは、典拠を挙げてあるものが一つも無いということ。かくして、wikipediaにある「関八州古戦録」も含めて史料を博捜してみたのだが…。
2013-06-15 17:38:20「関八州古戦録」「北条記」にはそのような記述は一切現れない。「川越市史」中世編史料2に河越夜戦当時の史料が時系列で並べられているのを見つけたのは最後の段階でしたけど、とにかく見つからない。
2013-06-15 17:40:02近世の地誌「新編武蔵風土記稿」はどうか。河越城下志多町、東明寺の項(巻162、http://t.co/AfckJQtjuM 38コマ目)によれば、「稲荷諏訪天満宮三社」として、扇谷上杉氏の家臣・難波田憲重が落ちた井戸を埋めて塚を作り、
2013-06-15 18:01:34上に三社(諏訪が憲重を祀ったものとされる)を設けた。しかし、宝暦まで境内の南に塚があり、家を建てるために塚を壊したら髑髏が四、五百出てきたと。だから今の塚は違うのでは?、とある。
2013-06-15 18:03:54つまり、東明寺に供養のために富士塚を造ったという史料は、はっきり言って存在しない。「新編武蔵風土記稿」は19世紀の前半に成ったもので、その頃なら富士講は盛んだったから、当時以後にそういう風に言ってしまった可能性はある。しかし、中世に富士塚が造られたということにはならない。
2013-06-15 18:06:50東明寺の山号は稲荷山とある。考えてみると、その山号はおそらくお稲荷さんを祀っていたからそうなのであって、あるいは狐塚があったのかもしれないし、供養の塚に狐が住み着いてお稲荷さんが祀られたのかもしれない。そこはわからないけど、でも、そこが浅間社でないことは明らかだ。
2013-06-15 18:10:38ここのところ、この話はいろいろと調べていたのであるが、東明寺に河越夜戦の戦死者供養のために富士塚が造られたということは無かった、と結論するに至った。個人的にはあってほしかったんだけど(まあ富士塚が好きな人にはロマンだろう)、検証したら実は違いましたというのも研究としてはあり得る。
2013-06-15 18:13:31富士講以前の富士塚、というものは、知られていないだけで、今でも信州あたりでは残っている予感がある。見つけられたら大きい発見なのだがなあ。
2013-06-15 18:16:38