「物語会津戦争」の形成と受容、そしてこれから
- kanekoiroha
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前も呟いたけど、山本兄妹が斗南に行かず京都で暮らしたことに対して、快く思わないのは後世の部外者だからだと思うんだけどなー。斗南は「苦楽を共に」なんて呑気に言ってられるような状況でがないはずで
2013-06-14 09:10:31覚馬さんはおいといて、女だけで戊辰戦後の4年間を出稼ぎしながら転々としてた八重さんたちの生活も相当苦しかったはずで、斗南組の人からしたら、斗南藩を頼りにせずに独立して生計立ててた山本一家は褒められこそすれ、非難されるいわれはないと思う
2013-06-14 09:18:26会津観光史学にいちばんもやっとするのは、会津正当化とか薩長悪役化でもなく、度の過ぎた悲劇賛美ですわ。苦労した人、酷い目にあった人が偉いみたいな
2013-06-14 09:43:23そもそも、会津観光史学においては、殿様と姫と山川一家を除けば「会津戦争か西南戦争で死んだ人」以外は不人気なんじゃないかなーと。その成立過程を思うと
2013-06-15 00:04:41山本兄妹はマイナーって言われてるが、実際もっとマイナーだけど重役だったり戦後に活躍したりした人けっこういるんだよなー。
2013-06-15 00:12:28@kanekoiroha いわゆる「戊辰雪冤」関係者でないとスルーされてた印象はありますね。佐川官兵衛が「再発見」されたのが太平洋戦争後というのは驚きでした。
2013-06-15 00:14:25官兵衛もそうなんですね。秋月や梶原もここ20年くらいですよね“@itzk_k: @kanekoiroha いわゆる「戊辰雪冤」関係者でないとスルーされてた印象はありますね。佐川官兵衛が「再発見」されたのが太平洋戦争後というのは驚きでした。”
2013-06-15 00:16:09@zhenzai1568 いや、そこは覚馬さんと同じで会津とは別に視点からの評価。30年くらい前までは会津観光史学的には「裏切り者」評価だったとか
2013-06-15 00:20:36@kanekoiroha 秋月や梶原までそうだとは知りませんでした。佐川は西南戦争後に阿蘇で碑が建てられたものの忘れられ、太平洋戦争後に訪れた会津関係者と地元の人間が埋もれてた碑を見つけて再顕彰、その後中村彰彦の小説で一気に知られるようになったとのことです。
2013-06-15 00:21:18@kanekoiroha @zhenzai1568 横からすみません。山本兄妹などに対する「裏切り者」感覚、私も実はちょっと分かります…(^^;
2013-06-15 00:23:53@kanekoiroha 南摩あたりは明治の同時代人からすれば会津の代表格だったはずなんですが、その成功者としてのイメージが「戊辰雪冤」から外れるせいか、昭和になるとやっぱりスルーされてる感じですね。例外は死者を顕彰するときに「この碑文を書いたのは…」と言及されるぐらいかなと。
2013-06-15 00:25:49@Izumitaku @kanekoiroha ああ、会津からの評価という意味ですか。ここ最近BSとかで会津観光特集やってるの見てるけど、外から見てるとちょっと歪であるのはなんとなく感じます。だけど、どこもそういうもんだと思うのですよな…。広角レンズが歪むのとにたような感じで。
2013-06-15 00:26:56白虎隊生き残りや山本兄妹への「裏切り者」感、別に当事者でもないのに(むしろ当事者でないからこそ)そういう感情を持ってしまう、という自己の嫌な部分を自覚しておきたいよな…
2013-06-15 00:29:43この死者顕彰、生存者は除外を最も感じたのが神保一家。神保一家は、内蔵助も修理も雪も非業の死を遂げた故にか会津戦争では主役格だけど、修理の弟の北原雅長は母成峠では指揮官なのに地味なんだよね。
2013-06-15 00:32:27