嫌われることと自己肯定感について
人間関係で悩みやすい人はそもそも人に嫌われてはいけないと思っているんだと思う。積極的に嫌われる必要はないが、ただ人に嫌われないように生きていると自尊心がどんどん失われていき、自信のない人に思われて結局大事にされなくなる。
2013-06-26 23:56:24人に嫌われるかどうかを行動基準にするより自分を素直に表現できているかを基準にしないと自尊心が損なわれる。自分の考えや感情をうまく人に伝えるテクニカルな問題はあるにせよ、もっとも大事なことは自分を表現することだ。
2013-06-26 23:59:50人と意見がぶつかったり、嫌われてもそれで良いんです。それは相手の勝手だから。こちらが相手を好きになったり、嫌いになったりするのもこちらの自由。人から嫌われてはいけない・好かれなきゃいけない症候群から解放されましょう。
2013-06-27 00:02:36「他人から嫌われる」事が怖い人は、「他人から好かれる」事を大事にしない。と言うかできない。「嫌われる>好かれる」であり、他人から「好かれる事」より「嫌われる事」の方が当人の中で重要度が高い。また他人から好かれている自信もない。だから、自分を好いてくれる人の言葉も信じられない。
2013-06-27 09:15:37私は他人から「好かれる」事の喜びを知る前に「嫌われる」事の怖さを知った。恐怖は人の心を支配する。でも「好いてくれる人」は間違いなくいる。「嫌われる事が怖い」に縛られて「好いてくれる人の気持ちを無視」していた。そんな事していれば、そりゃあ好いてくれる人だって離れていくよなと気付く。
2013-06-27 09:22:36自分を「好いてくれる人」を「好きになれるか」は分からないが、大事にする事はできる。その上で自分も相手を好きだと思えばそれで良いし、好きじゃなければ離れれば良い。自分を好いてくれる人を疑い、相手の気持ちを否定して、案の定嫌われて、「ほらやっぱり私は嫌われる!」流れはバカだと気付く。
2013-06-27 09:29:19そのバカさに気付いたら「好かれる」も「嫌われる」もどうでも良くなった。世の中には自分と他人しかいない。人の他人に対する評価は「好き」か「嫌い」か「どちらでもない」しかない。「どちらでもない」に興味はないから、何かもう「好き」を大事にする事だけ考えれば良いんじゃないか?と理解する。
2013-06-27 09:35:13正直に言えば「嫌われるのが怖い」に執着する人は、「他人が自分を嫌うように自分から仕向けている」。何でそんな事をするのか冷静に考えれば理解不能だが、「自分の世界の辻褄合わせ」の為にそうする人は多い。私もそうだった。心で逆の事を思いながら「嫌われたい」と全身全霊で表現していたのだ。
2013-06-27 09:38:16「誰かに嫌われる自分」が許せない人がいる。アレルギーか何かのように、嫌われた自分を憎悪し、嫌悪し、断罪的に扱い、「肯定されない自分のすべて」が許容できない。なぜならそのような人にとって嫌われるということは存在の否定だからだ。
2013-06-28 09:03:32嫌われるということは拒絶されることでもある、けれどそのような人の場合、拒絶されることは存在を否定されたかのようなショックを受ける。それにより傷を負った人は、誰かに好かれている自分を認識・肯定できない。
2013-06-28 09:03:55そのために必要以上に自分を蔑み、嫌われないために顔色をうかがい、今度は自分を肯定的に評価する人を否定し拒絶する。いつの間にか自分が世界の負の存在だと盲信する。
2013-06-28 09:04:11その際自分を守るために相手に嫌なことをしているという自覚はない。むしろ、自覚があっても止めることは出来ない。凶暴な動物は臆病ゆえに暴力に身を任せる様に、傷つくこと自体が恐怖であり、傷つけるものを気遣う余裕などそこにはないのだから。
2013-06-28 09:04:25また、人の顔色をうかがうこととはつまり、自分の在り方をつねに間違っているものとして疑い続け、自分を出さないことであり、同時にその状況の模範解答を探し続けていることでもある。
2013-06-28 09:05:02しかしながら、この世には正解も間違いも存在しない。あるのはそれぞれ違った在り方で、正しさは人の数だけ、その人自身の内にある。
2013-06-28 09:05:23加えて、人としての魅力は個としての独自性にある。顔色を伺うというのは自分のあり方を他人に委ねることであり、自分らしさの放棄でもある。故に顔色を伺うことは好まれない。
2013-06-28 09:05:31そもそも、顔色を伺うなどして嫌われない様にし続ける限り、たとえ嫌われることは減らせても心から好かれることは無い。歩くことで転びたくはないから、匍匐前進をするようなものである。それにより前に進むことはできるが、歩くということはいつまでも出来ない。
2013-06-28 09:05:57うまく歩くためには、歩くという経験をしなければ得られない体験知が欠かせない。だからこそ、何度転んでも歩く練習をする事は尊い。はじめなければいつまでも出来ないのはこういうことである。やればできるといって、やらないから出来ないままなのだ。
2013-06-28 09:07:00同じように、誰かに好かれるためには、好かれるための行動を模索し続けるしかないと思う。もちろん、与える側の都合しか考えない在り方では、同じように好かれることはないけれど。
2013-06-28 09:07:10勿論、失敗は成功の母なのだから積極的に嫌われろ、という事が言いたいわけではない。嫌われるだけ嫌われるだけではただの自傷行為と変わらない。大事なのは嫌われるという事で何を対価として得るか、ということだと思う。
2013-06-28 09:21:06誰かに嫌われた事を失敗と捉えて、自分を攻め続けてしまうことは容易である。そして不毛だとわかっていても止めることは難しい。だがなによりそれは自分に対して不誠実だ。なぜならそれは、やり場のない苦痛を強引に自分に向けることで、自分に八つ当たりすることと同じだからだ。
2013-06-28 09:28:27根強く好意を与えられたとえしても、「ほんとうのわたしはそんな大層な人間じゃない」と言うところに落ち着き、やがては「ほんとうのじぶん(嫌われる自分)」という偶像を消極的に崇拝するようになる。嫌われなくてはならないと思うようになる。
2013-06-28 09:33:01また、臆病さに甘んじて、自分が求めている正解は自分の中にだけあるということを忘れ、その「正しい在り方」に追いつけない自分に直面する。惨めでダメな自分をそこに見つけることになり、自分への魔女裁判は加速する。
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