柳田國男の初期文学論をじっくり読んでおくと,あら不思議,柄谷「風景の発見」「内面の発見」がすいすいわかるよ!という授業を大学院でする。柄谷さんはこの書を書く前には柳田論に取り組んでいたのだから,当たり前と言えば当たり前だ。寧ろ順序は逆と言えよう。
2010-06-01 14:19:35「中国行きのスロウ・ボート」も、とりとめのない(がゆえに心に残るという逆説的な)3人の中国人に出会ったことについての断片的アフォリズムで、「忘れえぬ人々」と似たような話。
2010-09-19 15:11:51柄谷行人の『日本近代文学の起源』は、講談社から1980年8月に出たけれど、連載されたのは『季刊芸術』1978年夏号から『群像』1980年6月号まで。なるほど。http://p.tl/lDHJ
2010-09-24 17:23:53ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』は、原著1983年で、邦訳1987年。あれ、この本って『日本近代文学の起源』で参照されてなかったですね……。http://p.tl/eDH6
2010-09-24 17:51:35柄谷行人、名著『日本近代文学の起源』を、発想の元になる原典を読んでから1~3年くらいで日本近代文学に適用して形にしていったことがわかりますね。抜群に早いです。
2010-09-24 18:00:22『現代思想』の対談での発言が大きな手がかりになると思います。ローティとかもかなり早くから読んでた模様。QT @helpline 柄谷行人、名著『日本近代文学の起源』を、発想の元になる原典を読んでから1~3年くらいで日本近代文学に適用して形にしていったことがわかりますね。
2010-09-24 18:10:13『日本近代文学の起源』のネタ元の話、この程度で判断しちゃいけないですね。柄谷自身の証言が『現代思想』などであるらしいので、当たってみます。
2010-09-24 18:29:57@odg67 芦田宏直の学生時代回想には柄谷会見回顧があって、目を引いたのが79年ぐらいにすでにサイードの『Beginnings始まりの現象』(1975)を読んでいて芦田に薦めたという箇所があったりする。由良君美も70年代にすで読んでいたらしい(『先生とわたし』)とかもあったな
2010-09-24 18:31:38@helpline 柄谷近辺でアンダーソンが言及されるのは村井紀やスガ秀実あたりであって、柄谷自身はそんなに言及してないかと。90年代末には発言等での否定的言及が目立ってきますが。
2010-09-24 18:33:44.@ttt_ceinture 今確認できないのですが、70年から法政の教養で教えていたことと(確か英語?)三浦雅士に英語圏の最新の動向(まさに当時の日本文学にとっては全くの外部であったと思います)を紹介できる論客として重用されたことが『日本近代文学の起源』の一つの背景なのかなと。
2010-09-24 18:46:44.@odg67 @ttt_ceinture 柄谷行人氏がイェール大学に滞在して日本近代文学のセミナーを担当したのが1975年で、その時の授業の内容をもとに『日本近代文学の起源』をまとめたという経緯だったと思います。ド・マンとの交流が始まったのもイェール時代かと。
2010-09-24 18:58:53『日本近代文学の起源』については、日本での執筆の経緯、受容も重要だが、その後英語などに訳され海外の日本学ひいては批評理論に大きな影響を与えている。その辺りの歴史的経緯を検証する作業は重要だと思う。
2010-09-24 19:13:23これも憶測なんですが、ひょっとするとその過程は柄谷以前の日本近代文学研究の国際的なヘゲモニー闘争における決定的な敗北であった可能性も…。 QT @shionkono: 『日本近代文学の起源』については|その後英語などに訳され海外の日本学ひいては批評理論に大きな影響を与えている。
2010-09-24 19:19:391987年に行われた「ポストモダンの諸問題」というワークショップが、柄谷・浅田的言説が北米のセオリーと出会った分水嶺的なイベントとして有名。『現代思想』にも収録され、英訳は _Postmodernism and Japan_ (1989) として出版。
2010-09-24 19:23:17柄谷はたしか小林登との対談で、江藤淳からヴィクトリア朝文化研究の集まりに誘われたことがあると発言していたことがあるが、75年までの柄谷の経歴には江藤を介した英文科つながりがあったように思われる。
2010-09-24 20:48:38イェールには漱石英訳者でハイエクの生徒だったエドウィン・マクレランもいたことだし、イェールへの移行が江藤つながりの可能性もある。江藤と英文学研究のつながりや体質はよく知らないが。
2010-09-24 20:49:56柄谷は70-79年に『季刊芸術』で文芸時評を担当していたことがあったけれども、この雑誌は文芸誌とはまた違った雑誌で美術や文化領域にも目を向けていたものだったような。たしか江藤が主にかかわっていた雑誌。
2010-09-24 20:52:45柄谷氏がイェールに行ったのは確かそういう経緯だったはず。江藤淳への追悼文で書いていた記憶が。 QT @ttt_ceinture: イェールには漱石英訳者でハイエクの生徒だったエドウィン・マクレランもいたことだし、イェールへの移行が江藤つながりの可能性もある。…
2010-09-24 21:23:01@helpline 1980年代の日本の近代文学研究は、現在のように柄谷行人の『日本近代文学の起源』を「名著」といって受け入れる状況ではありませんでした。むしろ、柄谷を引用などすれば、罵声が飛ぶような雰囲気でした。やれ、引用が「初出」に基づいていないなど、些細なものから、(続く)
2010-09-25 08:19:11@helpline 亀井秀雄氏の『感性の変革』のような詳細かつ根本的批判がありました。その辺は、ご存知ですか?また、柄谷行人は、法政大においては英語教師であり、彼の批評等は、学内で「業績」とは一切認められていなかったことも。愚劣ですがそうした研究史をやはり若い研究者(続く)
2010-09-25 08:25:19@helpline 若い研究者たちは知っておかないといけないのではないかと思います。当時のアカデミズムの研究者は、いわゆる「批評家」を、口には出しませんでしたが、軽蔑していました。(今もそういう人はごく少数ですが存在しています。)日本において「批評」の研究などは、(続く)
2010-09-25 08:35:54