そういえば先日はかおるさんとesoratに「フェミンが『我が絶望つつめ緑』読んでないのはおかしいので読め!」と凄い言われ方で命令されたのだった。
2010-10-04 01:15:58そういえばなんで俺がオーフェンを読んでないかというと、90年代ドラマガをリアルタイムで読んでて戦闘シーン描写が優れているのだけを選んでいったら最終的にヤマモトヨーコと封仙娘娘追宝録だけでいいという結論になったのだった。
2010-10-04 01:28:54しかし封仙娘娘の戦闘シーンは今から考えても頭がおかしい。登場人物のほぼ全員が完全に手段を選ぶ気ゼロで行動するので、価値観とかが関わらない純粋に戦闘に関する判断の心理描写だけであそこまでメンヘるのも凄いと思う。
2010-10-04 01:34:12ジョジョ的な「戦闘はゲームである」という信念をもとに話を展開してゆく方法論において封仙娘娘とスパイラル等は世代を超えて共鳴していると言えるだろうが、あいにく前者は90年代の産物だったので、戦闘ゲームを大真面目につきつめてしまったのである。
2010-10-04 01:49:48無論そんなことすれば必然的に読み合いの超複雑化が進行するとともに物語世界全体の大枠と読み合いとが不可分になって、どうにもこうにも行き詰まるに決まっているのだが、逆にいえばそういうことが許されたのが90年代富士見という環境だったとも言える。
2010-10-04 01:51:04たとえば作中世界のゲームルールにおけるプレイヤー倫理の限界(どこまでやっていいのか)を明示したのが第三巻『泥を操るいくじなし』なのだが、あれは本当に酷かった。精神抵抗不能の完全他者操作を受けた仲間をまじめに書くとか冨樫義博でもやらんぞ。
2010-10-04 02:03:3590年代らしいパワーインフレを大真面目にゲームルールで表現するので、2巻の万波鐘の点配置攻撃とか天呼筆の雷撃連打とかも相当アレだったが、途中から「ルール上斬れないものはない矛」とか「ルール上違反できない契約書」とかが出てくるので、なんというかプレ・ゼロ年代という感じがして面白い。
2010-10-04 02:17:02文体レベルでの実験や冒険をいっさいせず、ただ純粋に戦闘ゲーム表現だけをつきつめた結果としてああいったモノが生まれてしまうのはなかなか示唆的だと思う。自覚的に擬似ミステリを描いた中編の「刀鍛冶、真淵氏の勝利」とかも、今読むとさすがに古臭さは否めないが、あれを富士見で書いたのは凄い。
2010-10-04 02:23:30ああもちろんオーフェン短編も面白かった(身も蓋もなさがリアリティ云々)けど、やっぱ封仙娘娘のストイックな読み合いゲーム追求は尖ってたよ。
2010-10-04 02:35:22