宮崎駿曰く"押井守の映画には自然観が無い"のは何故か。
僕が押井さんの話でいつも気になるのは、自然というか、植物の存在の上に乗っている人間という生き物のありようについて、押井さんがどういう視点を持っているか。日常的にはベランダに来る鳥にエサをやったりブドウをはわせたりしているのは知っているけど、その辺が映画の中に一切出てこないでしょう
2013-09-14 20:29:14押井さんは人間が生きて見ている世界と、せいぜいそのパートナーとしての犬くらいで、自然なんて語る気は無いんじゃないかな。
2013-09-15 22:39:42あの人はきっと、そんなの人間が生きるのに困らなければ良いと思ってる。神の言葉とか引用するけど、所詮それも道具。即物的な人間が理屈を言ってるから意外と解りやすい所があるようにも思う。
2013-09-15 22:44:02@chronekotei 戦争だってなんだって、人が人とどう対峙するのかってことに目が向くんですよね。自然を描くとしても、賛美するのではなく分析しようとするでしょう。何か作るときは本に付箋貼りまくって調べるそうだし。あの人は人の語ったことを語り直してると言えますかね。
2013-09-15 22:54:14@neko73 押井守が関心を持っているのは、そうやって人間同士が作り上げている人工的な文明社会であって、自然の捉え方なんて精々P2のカンボジアの遺跡みたいな退行や荒廃のイメージなんだと思いますよ。
2013-09-15 22:56:56@chronekotei だから押井守といえば「都市」のイメージがあるワケですね。ヒルズで226イベントやってるのも都市絡みだったような。
2013-09-15 23:00:57@neko73 元RTの「日常的にはベランダに来る鳥にエサをやったりブドウをはわせたり」とか、「自然」豊かな環境に引っ越したりするのって、実は割と都市住民的な感覚なんですよね。都市住民って飼い慣らされたコージーな「自然」が好きなんですよ。
2013-09-15 23:02:48たとえば、この辺だと歩道の街路樹や雑草の整備はかなりひどくならないとやらないけど、雑草が生い茂った歩道ってそんなに気持ち好いものではない。
2013-09-15 23:06:36@chquita_ コージーな自然が心地よいってのは否定すべき感覚じゃないんですよね。それは「自然」そのものじゃなくて「庭園」的な感覚なんですが、だから庭園は否定されるべきかと言ったらそうじゃない。
2013-09-15 23:14:37@chronekotei 知床の、開拓を拒むようなガチ原生林いったとき、すごいこわくなりました。森に食われるような気がした
2013-09-15 23:09:20@alchmistonpuku だから北海道の人々は「自然なんてかなりガンガン攻めて開発して行ってもどうせ復興する」と謂う感覚があるんじゃないか、と謂う話を他の道民の方としたことがあります。もう、圧倒的に文明を飲み込んでくるものなんですよね。
2013-09-15 23:10:47身体なんてなくても自分と謂う存在はあり得るだろうと謂う発想そのものが都市住民的だよな。都市的な環境において身体性ってどうなるのか、身体性なんかなくても人間は存在出来るのか、と謂うのが攻殻機動隊なんかのテーマだし。
2013-09-15 23:08:44身体性についての問題意識って、そもそも発想の原点に「身体性と乖離した自己の存在」をあらしめる高度集積的な技術インフラみたいなものを前提に置いているけど、それは都市住民的な感覚であって、技術インフラなんかいつ消えてなくなるかわかんないと謂う感覚の人もいるわけで。
2013-09-15 23:13:04でも、結局宮崎駿だって「風立ちぬ」関係の発言を視るに、単に集積回路や電子的なテクノロジーよりももうちょっと直観的にわかりやすく歯車とエンジンと大規模土木事業みたいな技術レベルのほうがステーブルな感じがして好きだと謂うだけで、押井守とそんなに感覚が違わないじゃん的な(笑)。
2013-09-15 23:19:21結局は、文明観として宮崎駿のほうが正しくて押井守は正しくないとかそんなことは全然ないんですよ(笑)。二人とも文明が大好きなんであって、自然とか環境問題なんて面倒くさいなと思っているのは同じなんだよね。
2013-09-15 23:21:17じゃあどこが違うのかと言ったら、宮崎駿は育ちの良いインテリだけど押井守は育ちの悪いインテリだと謂う、そう謂う違いだろうなぁ(笑)。
2013-09-15 23:22:59