- Eric_Ridel
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織田信長研究で知られる谷口克広先生が、信長の外交・軍事・統治・経済などの政策について幅広く分析した近著「信長の政略」を読み終えましたので、これから感想を書いていこうと思います http://t.co/VLn54nn0M9
2013-09-28 21:17:51序章は信長の統一戦争のおさらいなので割愛します。第一部は「周囲に対する政略」。他大名との外交、幕府や朝廷や宗教勢力との関係などについて触れられています
2013-09-28 21:20:14第一部第一章は「外交と縁組政策」。他大名に対する信長の外交政策を扱った章です。信長の外交の特徴は第一に遠交近攻。隣国を攻める時は必ず背後の勢力と手を組もうとしています。信長の宿敵として知られる武田や上杉ももともとは友好国でした。彼らと敵対すると、奥羽や関東方面の勢力と組んでいます
2013-09-28 21:26:52信長外交の第二の特徴は格上相手には露骨に媚びるのに、格下相手になると急に尊大になること。もともと信長は武田信玄や上杉謙信に歯の浮くような美辞麗句を並べて取り入って機嫌を取っていましたが、上洛して実力をつけると次第に媚びを売るのをやめて対等に付き合おうとしています
2013-09-28 21:31:18また、もともと対等の同盟を結んでいた徳川家康や浅井長政に対してはどんどん態度がでかくなり、完全に目下扱いするようになりました。相手が強い時は全身全霊で礼を尽くして機嫌を取ろうとするけど、自分が強くなったら強気に出て押さえつけようとする。合理的ですがあまり格好良くないです
2013-09-28 21:34:55信長外交の第三の特徴は盛んな婚姻外交。信長は物凄く子沢山な人で息子も娘もそれぞれ10人以上います。縁組の手駒が多いのです。息子を他家の養子に入れて勢力を拡大し、娘を有力者に嫁がせて友好関係を結びました。特に伊勢攻略では養子戦略で北畠、神戸、長野といった有力な家を乗っ取っています
2013-09-28 21:42:07信長は実に老獪な外交をするのですが、決裂が決定的になって「こいつとはもう仲直りしない」と決めたら、徹底的に追い詰める執念深さもあります。信長の外交戦略は態度の使い分けや縁組を駆使する巧妙さと「敵対しなければ仲良くするけど、敵対したら許さない」という単純な論理の二面性があるようです
2013-09-28 21:47:50第一部第二章は「室町幕府と信長」。信長と足利将軍の関係です。上洛して義昭を将軍に擁立した後の信長は公的には「将軍の家臣」という立場で振舞っていたようです。信長の重臣と義昭が任命した畿内各国の守護の重臣が連名で政務にあたっている例が散見され、信長は幕府の守護と同格扱いでした
2013-09-28 21:53:13信長と畿内の守護(摂津の和田・池田・伊丹、河内の畠山・三好、大和の松永など)達の立場が同格とはいえ、実際は尾張・美濃二国と近江・伊勢の一部を支配する信長の実力が飛び抜けています。事実上、信長が義昭のスポンサーでした。義昭は信長に気を使い、御内書で「御父」と呼んだこともあります
2013-09-28 21:57:04信長は義昭のために御所を建ててやり、反義昭勢力を討伐したりして、必死で義昭を支えます。しかし、次第に衝突することが多くなり、信長が「俺にことわりなく勝手なことをするな」という条書を義昭に押し付けたり、信長が義昭を激しく批判する意見書を出したりするなど、関係が悪化していきます
2013-09-28 22:04:00信長の出した義昭批判の意見書の内容を見るに、信長は義昭のいい加減な政治ぶりに我慢がならなかったようです。それでも信長は義昭を排除する気持ちはなかったようです。義昭が幕府軍を動かして信長に敵対した後も必死で仲直りしようとし、「私の気持ちをわかってもらえるだろうか」と漏らしています
2013-09-28 22:11:32実際「歴史がよくわかるナントカ」なんかより、はるかに適切にまとまっていますし、現行説もおさえてますから@sweets_street @chiqfudoki @orange34271 @Archer12521163 山川の教科書と副読本を読み込むだけでも物凄く勉強になりますよ
2013-09-28 22:12:29信長は幕府軍を蹴散らして上京し、京都の町に放火して義昭に軍事的圧力をかけつつ交渉を続けましたが、義昭は異常に強気で信長に折れようとしません。困り果てた信長は天皇を動かしてようやく義昭と和解しましたが、数ヶ月でまた幕府軍を動かして信長に敵対しました。信長は完全に義昭に舐められてます
2013-09-28 22:16:54@sweets_street あの舐められっぷりというのは不思議ですね。その前の三好長慶なんて、生きている間ほぼ完全に足利将軍を統制したのに
2013-09-28 22:18:23@1059kanri @sweets_street やっぱり、成り上がりの陪臣としてみられていたのかなぁ、本音では。
2013-09-28 22:19:45最終的には信長は義昭を追放しました。信長は敵を許さない気質でしたが、世間の評判には神経質で「天下の人々がどう言っているか」をやたらと気にしていました。批判されるのが怖くて義昭をなかなか排除できず、決裂しても殺すことができなかったのでしょう。追放後も信長は義昭に悩まされ続けました
2013-09-28 22:24:27義昭という人はとにかく神経が太くて行動的です。信長に対してはなかなか妥協せずに交渉担当の秀吉に「行方不明になったって報告しておくから、好きなところへ行けよ」と匙を投げられ、追放されてからも薩摩の島津にまで自分を京都に帰還させるよう命令し、信長陣営の徳川家康にまで協力を求めています
2013-09-28 22:31:11追放後の義昭は信長には「今さら戻ってこられても困る」と思われ、毛利にも「こちらに来られたら困る」と思われてたらしく、かなり迷惑な存在であったようです。どうも常識人の信長がアグレッシブな義昭に振り回されてる一方だったんじゃないかと読んでて感じました
2013-09-28 22:34:20第一部第三章は「朝廷と信長」。信長と朝廷の関係です。信長は上洛すると皇室領の回復や皇居の修理、皇室への資金援助などを行って、将軍義昭に対しても皇室を大事にするように口を酸っぱくして言っています。信長は幕府に対してだけでなく、朝廷に対しても気前の良いスポンサーとして振る舞ったのです
2013-09-28 22:40:42朝廷は信長の貢献に対して官位を授けることで報い、弾正忠を自称しているものの無位無官だった信長はいきなり従三位権大納言の高位を授かって、二年で正二位右大臣に上り詰めます。その後、「天下統一が終わるまで官職を退きたい。天下統一したらまた復帰する」と言って右大臣を退きました
2013-09-28 22:45:46朝廷としては最大のスポンサーが官職に就いてないのは体裁が悪いので何度も官職を与えようとしますが、信長はその都度断って、最終的に「天皇が無事譲位したら左大臣をお受けする」と答えます。天皇の長年の悲願である譲位事業の協力者である信長は、達成後に朝廷復帰するつもりだったのかもしれません
2013-09-28 22:53:57天皇がしばらく在位したら譲位して上皇になるのは平安時代以来の慣例でしたが、財政難のために数代にわたって天皇は譲位することができませんでした。信長というスポンサーを得た皇室にとっては、天皇が譲位して上皇になる慣例を復活させる好機でした
2013-09-28 23:00:51