道徳の教科化における評価の在り方(思案と試案と私案)

道徳の教科化が語られる際,「人の心を数値で評価するのか!」という言葉を必ず耳にする。もし道徳が教科になったとして,◎△や123で評価するなんてだれも本気で思っていないだろうが,「ではどうするの?」という事も語られていないように思う。ということで思案中の試案を私案としてつぶやいてみました。
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木原 一彰 @kh_kaz

道徳の教科化に関して,批判の矛先が,「評価」という部分に向かっている感がある。曰く「児童生徒が成績を意識し個性が失われ,同調圧力が強まる」と。そこで,領域としての道徳で忌避されてきた評価が,今後どのように行われるべきかについて,高学年~中学校の実践をイメージして考えたい。

2013-11-21 23:42:07
木原 一彰 @kh_kaz

周囲と同じ行為の強制を求め同調圧力によって社会を維持する意図の元に成立しているものに「法」がある。「法」は,社会契約概念で,社会の成員が社会を維持運営するために必要と考える内容について強制力を持って同調を求めるものであり,言うまでもなく,法と道徳はその本質を異にするものである。

2013-11-21 23:42:51
木原 一彰 @kh_kaz

換言すると,「道徳の学習に関する児童生徒の評価によって同調圧力が強まる」と懸念する人は,「道徳の教科化とその評価」が「法的拘束力」に匹敵する強大な権威を内在したものであると認識していることになるだろう。

2013-11-21 23:43:11
木原 一彰 @kh_kaz

教科化された道徳の時間において,環境と状況の認識による価値判断と,それに伴う道徳的実践を志向した授業が行われるならば,児童生徒なりに諸価値の構造化が図られ,自分なりの生き方(価値観)が醸成されるはず。こうして醸成された児童生徒の価値観は,単一構造になることはまずありえない。

2013-11-21 23:43:31
木原 一彰 @kh_kaz

例えば,野口英世の生き方から学ぶ道徳の時間を構想したとして,ねらいとする価値を不撓不屈としたとする。従来ならば,その不撓不屈の精神が如何に素晴らしいかを,野口の気持ちを問いながら理解させる授業になりがちである。これでは,なるほど先人を体よく利用した同調圧力のある授業になるだろう。

2013-11-21 23:43:56
木原 一彰 @kh_kaz

しかし,「野口英世の不撓不屈を支えた思いに迫ろう」とすれば話は変わる。野口の生き方を追究すると,「母の支えがあったから」とか「自分の個性を生かす道はこれしかない」,「迷惑をかけ世話になった人々のために」など不撓不屈が他の諸価値に支えられて成立していることに気づくことができる。

2013-11-21 23:44:24
木原 一彰 @kh_kaz

さらに,価値を主体化する場面で,「野口の生き方を支えた思いの中で,自分がこだわりたい部分はどこか」を考えることで,「こんな状況やこんな場面なら,一見困難に見える不撓不屈を自分でも実践できそうだ」という自分なりの価値の構造を作り上げることができる。

2013-11-21 23:44:46
木原 一彰 @kh_kaz

そこまで学習が進んで初めて「評価」の出番である。個々人が作り上げた価値の構造を単純に○×で評価できるはずがない。できるか・できないかの評価ではなく,児童生徒が「価値をどう構造化することで主体化が可能になると考えたか」を見取ることが教師の行う「評価」の作業になる。

2013-11-21 23:45:09
木原 一彰 @kh_kaz

そのためには,児童生徒が,毎時間の学習の記録を道徳ファイルなりに書き留めるポートフォリオを作成する必要がある。これが,新編心のノートで可能かどうかは実物を見ていないので不明ではあるが,評価する以上は,そのための蓄積が必要なのは他教科と何ら変わらない。

2013-11-21 23:45:23
木原 一彰 @kh_kaz

そして,通信票に文章で評価を記入する際には,ポートフォリオに蓄積された中から,評価軸に照らして特に顕著と認められる内容を記述する。「Aさんは,○○の資料での学びの中で,自分の個性を生かすためなら困難も克服できると考え,特に部活動を頑張りました」など,具体的に書くことが必要だろう。

2013-11-21 23:45:40
木原 一彰 @kh_kaz

こうした評価は,今の通信書の特別活動等の記録欄にある「勤労奉仕◎,公共心△…」よりも,余程丁寧で,同調圧力のない評価ではないだろうか。ただ,教師がこのような評価をできるようになるためには,道徳の時間の実践について,相応の意識改革も必要になることは間違いないが…。

2013-11-21 23:45:53
木原 一彰 @kh_kaz

まず,評価が蓄積できるだけの授業を確実に行うことが求められる。道徳の時間をテスト返しの時間に振り替えるような状況は問題外だが,ただ漫然と実践しても適切な評価に至るだけの蓄積は得られないだろう。児童生徒が自らの生き方と真剣に向き合う骨太の授業がどれだけ実践できるかにかかっている。

2013-11-21 23:46:08
木原 一彰 @kh_kaz

また,道徳の授業は,やはり学級担任が行うべきである。道徳の時間の実践と評価のためには,児童生徒の生活環境を的確に把握し,より強い信頼関係を築くことが大切である。それができるのは日常的に関わりのある学級担任であろう。学級経営が教育活動の基盤と言われるが,道徳もまた然りである。

2013-11-21 23:46:25
木原 一彰 @kh_kaz

さらに,道徳の時間の評価を児童生徒それぞれへのメッセージと捉え,評価の記述内容を適切に見極めること,プラス思考あるいは未来志向の表現にすることなど,教師が認識を新たにして臨むべき事柄は多い。しかし,評価に取り組む教師の姿勢自体は,各教科,英会話,総合などと大きな変わりはない。

2013-11-21 23:46:38
木原 一彰 @kh_kaz

思いつくままに書いたので,思慮に欠けた部分があることをご容赦ください。ただ,道徳の教科化に関しては,現職教員を指導する人材の育成や,次代を担う教員の養成に関する部分に,より大きな問題があるように思うのですが,そのことについては,時期を見ながらつぶやくことにします。

2013-11-21 23:46:54