【藝大博士課程】黒瀬陽平『実はぼくも当初は(博士論文を)どうせならちゃんとアカデミックな形式で全部書こうと思っていたんですが途中で諦めたんです』【寺山修司研究】
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黒瀬陽平 @kaichoo の12月刊行予定の新刊『情報社会の情念』をゲラで半分ほど読んだが、これは傑作なのではなかろうか。
2013-11-25 12:52:12黒瀬陽平 @kaichoo に絶賛の電話をした。ゲンロンカフェ年内最終日は彼との対話で行くことになった。黒瀬新刊は寺山修司論が中心になっているが、それがそのままゼロ年代論、観光地化計画論、ひいては東浩紀活動論にもなっているので、ゲンロン2013年の締めくくりとしてふさわしいはず。
2013-11-26 16:55:52黒瀬陽平さんの博士論文「情報社会の彼岸 ――「負の拡張現実」とその両義性」。僕らが教わった科学技術論文の題目の付け方とは、まったく流儀が異なることがわかる。内容を知りたいところ http://t.co/4g44CkAps9
2013-12-10 22:55:06ぼくの博士論文なんて「存在論的、郵便的——後期ジャック・デリダと精神分析」ですからねw RT @hwtnv 黒瀬陽平さんの「情報社会の彼岸 ――「負の拡張現実」とその両義性」。科学技術論文の題目の付け方とは、まったく流儀が異なるる。http://t.co/jX3o1jFtq4 …
2013-12-10 22:58:33@hazuma さっき書いたんですが、あくまで科学技術論文の流儀ですから。人文系の論文はまた流儀が異なるのかな、とも思います。
2013-12-10 23:02:35①何を目的に ②何を制作して ③どう検証した ④その結果何がいえるか をそれぞれ一文で書き出す。それらを繋ぐと論文要旨になる。それぞれから落とせない単語を拾って繋げると「題目」になる。つまり、題目をみれば論文の概要がわかる。僕はそう教わってきた。
2013-12-10 22:57:56なので、論文誌をめくるときはまず題目をみる。そこで内容がつかめたら要旨を読み、詳細を知りたければ論文本体を読む。つまり題目がイマイチだとなかなか読むに至れない。査読時もそこを指摘することがある。先程の芸大のもののように、おそらくは叙述的な論文の場合は、また事情が異なるのかな。
2013-12-10 23:01:18といいつつ僕も、査読論文ではなく寄稿だったり書籍だったりするときは、湿り気のあるタイトルを付けたり本文を書いたりもする。あくまで論文執筆の流儀のひとつ。でも、こと研究発表においては有用なメソッドだと思っている。
2013-12-10 23:11:16なお僕の博論のタイトルは「マッシュアッピングと顔アイコンによるデジタルアーカイブ資料についての記憶促進」。新書その他のタイトルと比べてもらうと、付け方の違いがよくわかると思います。
2013-12-10 23:13:19@hwtnv そうですね。ぼくの所属は藝大のなかの、さらに芸術学系でもない作品制作中心の学科なので、博論といえどもガチガチにアカデミック形式にすることはほとんどありません。学会のようなところに向けて書くのではなく、卒業制作作品の「解説」といった意味合いが強いです。
2013-12-10 23:33:10@kaichoo うちの学生たちは工学部のなかのアート&デザイン系学域なので、作品もつくらねばならずガチで論文も書かねばならずという二重苦(楽?)を負っています 笑 それだけ力も付けてくれてるとは思いますが。
2013-12-10 23:36:35@kaichoo 流儀が違うのはあたりまえなので、自分ならこう論述して、こういうタイトルを付けるかも、とシミュレーションしてみたりします。博論、公開されたら拝読したいと思います。
2013-12-10 23:39:09@hwtnv なるほど それはたしかに力が付くはずですね。実はぼくも当初は、どうせならちゃんとアカデミックな形式で全部書こうと思っていたんですが、途中で諦めたんです。アカデミックな形式では書きたいと思っていることが上手く書けず、かといって内容を変えることもできなかったので。
2013-12-10 23:41:31@hwtnv それは甘えといえば甘えなんですが、しかしぼくは美術評論においてアカデミックな世界で生きていく気は一切ないので、書くべきことを書こう、と決めたということでもあります。
2013-12-10 23:43:35@kaichoo 作品は無限の解釈を生み得る / 論文に誤読の余地はない、と、もともと正反対の性格のものかも知れません。僕の場合は作品先行で、論文はその一つの面を論じたものになっています。
2013-12-10 23:44:20@kaichoo 評論のようにプロとして書く文章と「科学」の論文(理系文系問わず)は性格が異なるはずです。後者は客観的に事実を述べ、新たな知見を提供せねばならない。前者は正直わかりません 笑 が、まずは読者を楽しませなければなりませんよね。
2013-12-10 23:47:59渡邉さんのお仕事は以前から拝見していたけれど(ネット上の渡邉さんの動画はほとんどすべて見てるw)、こんなところで(こんな話題で)ファーストコンタクトとは...
2013-12-10 23:50:18論文は論理なので当然、仮説があって、検証があって、証明があって、結論がないと成り立たない。それに対して、作品はいろいろな仮説や、仮説ですらない漠然とした予感のようなものを複数詰め込むことができる。しかし、だからといって論文が必ず単線的なものかというとそうでもない。
2013-12-10 23:57:04ぼくが単著で取り扱った寺山修司や岡本太郎やヴァールブルクは、論理を扱いながらも、自分でははっきりと意識していないことまでテキストに書いてしまっている人たちだった。そのことに、生前の本人たちはあまり気づいていなかった。そういうことが起きるところに、ぼくは論理の魅力を感じる。
2013-12-10 23:59:21そういう意味で、ぼくは寺山に対してはすごく両義的な気持ちを持ってる。はっきり言って、彼の評論やしゃべりの8割くらいは全然おもしろくない。でも、歌人であり、小説家であり、劇作家であり、映画監督であり、、という寺山の全体像を通して再読してみると、異様に輝くテキストが混ざっている。
2013-12-11 00:10:36