住友陽文さんによる「靖国参拝が歓迎されるのはなぜか」のまとめ

一連のツイートを読みやすいようにまとめさせていただきました。
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住友陽文 @akisumitomo

安倍首相の靖国参拝に何の道義もないからといって、百田尚樹氏の常日頃の発言が目に余るからといって、映画『永遠の0』が大ヒットしている事実はそれなりに受けとめねばならない。では、靖国参拝が歓迎されるのはなぜか。元日に見たTV番組を見て思う事があったので連ツイしてみる。

2014-01-03 23:05:16
住友陽文 @akisumitomo

元日のテレビ番組「ニッポンのジレンマ~この国のかたち2014」http://t.co/PVLNlAj26hは興味深かった。年齢20代後半から40代前半の研究者や起業家などが参加。靖国参拝に喝采を浴びせる世相の問題と関連しそうなので、感想を述べる。以下、ツイートは①から⑳まである。

2014-01-03 23:05:55
住友陽文 @akisumitomo

①やはり伊藤春香さんの「半径5メートルくらいの付き合いで自分の関係性は成り立つ」という発言が討論会の通奏低音になっていたように思う。それに、白井聡さんの「なぜ若者は権力のことを考えないのか」という“異臭”が良いアクセントになったと思うし、僕はこれはこれで会が成り立っていたと思う。

2014-01-03 23:06:47
住友陽文 @akisumitomo

②結局、人はどのように国をデザインしていくかと言えば、諸個人が権力・国家・政治のことを考えなくて済むようにである。その結果、国家などの存在「感」は抹消され、あるのは可視的で皮膚感覚で認識できる「自分とキミ」という世界になる。

2014-01-03 23:07:38
住友陽文 @akisumitomo

③施光恒さんが、日本ではハードな国家よりも互譲互助の世界の方が機能していると述べるとき、きっと国家は互譲互助の世界に自らの権力を分節化して、社会にそれなりの国家の分身を宿らさせているのではないかと思った。

2014-01-03 23:08:46
住友陽文 @akisumitomo

④人と人との道徳的な付き合いを考えていることで社会が成り立ち、同時に国家はいちいち諸個人の関係に介入してお節介を焼くコストが軽減されるから、国家は基本的に社会の秩序維持への労力が節約される(原発事故が起きても大人しい「デモ」で済む。ある意味デモでさえ飼い慣らされている)。

2014-01-03 23:09:31
住友陽文 @akisumitomo

⑤こういう国家の試みは日露戦後の地方改良運動のことを知っている人には馴染みだし、きっと江戸時代にも同様のことはあるはず。気の利いた議論の整理をしていた與那覇潤さんも江戸時代は「国のかたち」を考えなくて済んだ時代だと言い、半径5キロメートルの世界がすべてだったと言う。

2014-01-03 23:10:13
住友陽文 @akisumitomo

⑥もう一つ重要な論点。つまり、自分の世界に引きこもっている人で、しかも国のことを考えないで済む人のなかで、それなりに志とスキルをもっている強者(起業家)はいとも簡単に国境を越えるが、弱者は嫌な隣人とも付き合いながら国の傘の下に暮らさざるを得ないという対照性も焦点になった。

2014-01-03 23:11:57
住友陽文 @akisumitomo

⑦考えてみれば、国民国家というのは、稼ぎに応じて税金を取るのに、権利やサーヴィスは一律にしか国民に与えない。負担と権利・サーヴィスとは照応していない。そういう意味で国民国家は強者には厳しいから、強者は自らの力で国境を飛び越えて活動しようとする。それは資本の力学でもある。

2014-01-03 23:12:48
住友陽文 @akisumitomo

⑧主権国家はこういう開かれた原理(グローバリズム≒資本主義)に直面しているにも拘わらず、自らは必死で閉じようとする。その結果できるのがたぶん国民国家だ。だから国民国家は離脱しようとする強者にこそ国のかたちの中に留まるように引きとめるし、だからこそ愛国心をと叫ぶ。

2014-01-03 23:14:20
住友陽文 @akisumitomo

⑨本当は誰もがそのように自由に生きたいが、それができない人たちは強者に「非国民」の汚名を浴びせる。社会の中心にいるはずの強者は外部に出ようとするが(中心にポッカリ穴があく)、周縁部ほど強固な共同体の紐帯を希求するナショナリスティックな心情が蓄積されていく。

2014-01-03 23:15:12
住友陽文 @akisumitomo

⑩国民国家という紐帯は、こういった周縁部に蓄積されるナショナリズムにその強靱さの根拠がある。他方で、いわゆる意識の高い人たちほど、国を考えていない、そんな社会ができあがってくる。これは半ば幸福だけど、やはり何かごまかしがある。意識しなくともやはり国家は存在するからだ。

2014-01-03 23:16:43
住友陽文 @akisumitomo

⑪日本では人を3人も殺せば確実に国家によって殺される。国家など幻想だと言ってもこれは現実だし、死刑執行という実体に否が応でも国家を見るはずだ。だからやはり常にこの見えない国家という存在について考えることは大事だ。それに周縁部の人たちは国のことを考えろと言う。

2014-01-03 23:17:23
住友陽文 @akisumitomo

⑫国家が暴力を行使しうるという客観的な姿と、国のことを考えろと言って暴走しかねないナショナリズムという意識にその姿を借りた国家を、やはり避けては通れないと思う。與那覇さんがインタヴューで述べている。国家は自然なものではない。人々の日々の選択の結果、歴史的に形成されたものだと。

2014-01-03 23:18:19
住友陽文 @akisumitomo

⑬戦後の日本の国家だってそうだ。「鼻をつまんで通り過ぎ」てもいいかもしれないが(先崎彰容さんが紹介した三島由紀夫の言葉)、やはり「呼吸を乱」しながらも(やはり先崎さんが紹介した江藤淳の言葉)、添い寝しなくてはならない。しかし、それはあるがままの国家を受け入れることではないはずだ。

2014-01-03 23:20:23
住友陽文 @akisumitomo

⑭いまある国家と自分たちの社会の成り立ちを知って(世界大の視点で俯瞰-コスモポリタニズムの視点)、いったんはそれを引き受けつつ、引き受けるからこそ、それをどう更新していくかを自分たちの問題として考えることができる。

2014-01-03 23:20:52
住友陽文 @akisumitomo

⑮僕は安倍首相は本当は国家権力など嫌いだろうと思う。彼自身が国家権力だという自負があるからなのか、国家が抑圧装置であるということはとにかく否定したいようだ。しかし、首相がどう思おうと国家権力は暴力を行使するし、それが本質だとも言える。暴力を行使できない国家は国家ではなかろう。

2014-01-03 23:21:36
住友陽文 @akisumitomo

⑯もう一つこの討論会で、ミクロの話は明るいが、マクロの話は暗いというのがあった。明るい暗いはともかく、個人の物語と国家の物語が乖離していている(ように見える)というのは確かによくある話。

2014-01-03 23:22:22
住友陽文 @akisumitomo

⑰例えば百田尚樹氏は個人の物語を美談として描くことで、戦争という悲惨で大きな物語から個人を守ろうとしたのではないか(戦争や国家の前を「鼻をつまんで通りすぎた」)。百田氏も国家権力が好きじゃないと思う。だからそれを直視することなく個人の物語に逃げたのだ。

2014-01-03 23:23:01
住友陽文 @akisumitomo

⑱逆に『風立ちぬ』で宮崎駿監督は戦争にコミットしたエリートの半生をわざと美しく描いてみせた。個人の物語と国家の物語が不可分なのに、そこで描かれた個人と国家の関係は絶望的なほど遠く、そして決定的なほどつながっていたのに。この映画を見た少なくない人たちはそれに気づいて煩悶した。

2014-01-03 23:23:56
住友陽文 @akisumitomo

⑲問題は強者のなかで二極分解していることだ。川を飛び越える起業家タイプの人は「国家など関係ないよ」と楽観的に見えるし、川を隔てている国家的なるものの危険性を訴えるタイプの学者は「国家の危険性」を訴えて悲観的に見える。だが、どちらでもない多くの人からすれば、その二極分解は絶望的。

2014-01-03 23:24:49
住友陽文 @akisumitomo

⑳川を飛び越えられないで此岸に留まった自分たちのいる場所は希望がないと言われているからだ。だったら、その生き方として「国家のために死ぬ」ことを選択すれば、少なくとも国家から居場所を与えられる。靖国を支えるこの国の精神構造はこれではないか。

2014-01-03 23:25:51