茂木健一郎(@kenichiromogi)さんの連続ツイート第1176回「昔は、お金が(物質として)なかった」

脳科学者・茂木健一郎さんの2月24日の連続ツイート。 本日は、最近ふと思ったこと。
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茂木健一郎 @kenichiromogi

連続ツイートをお届けします。文章はその場で即興で書いています。本日は、最近ふと思ったこと。

2014-02-24 06:26:47
茂木健一郎 @kenichiromogi

むお(1)先日、飛鳥IIに乗ってミャンマーに行ったとき、私自身は一銭も使わなかったのだけれども、寄港前の船内アナウンスで、「ミャンマーでは、米ドルが流通しています」と言った後、「しかし、お札が汚れていたりして古いと、受け取ってもらえないことがあります」と説明があった。

2014-02-24 06:28:06
茂木健一郎 @kenichiromogi

むお(2)それで、「ああ、懐かしいな」と思った。学生の頃、インドネシアに行った時に、そんな経験があった。米ドルにせよ、現地の紙幣にせよ、少しよれよれになっていたりすると受け取ってもらえない。現地の人が、古いお札を「換えてくれないか」と持ってきたこともあった。

2014-02-24 06:29:13
茂木健一郎 @kenichiromogi

むお(3)現代的な考え方からすれば、お札は貨幣の単位としての機能を果たしているわけで、強制通用力もあり(米ドル札にはlegal tenderと書いてある)から、よれよれでも何でも、使うし受け取るということになるが、東南アジアの一部にある「新札信仰」は、かえって新鮮だ。

2014-02-24 06:31:12
茂木健一郎 @kenichiromogi

むお(4)昔は、お金は価値の単位であると同時に「モノ」としての存在が大きかったのではないかと思う。私は、江戸時代の「大判」を見るのが好きで(一個も持ってないけど)、あの、金を叩いて模様がついていて、当時の政府の担当者の花押みたいなのが墨でするすると書いてあるデザインが素敵。

2014-02-24 06:32:35
茂木健一郎 @kenichiromogi

むお(5)「大判」は、芸術品としてみても素晴らしいけれども、あんなものを、日常の取引でいちいち渡しあっていたとも思えない。小判は、落語の「火焔太鼓」などで、よく五十両ずつ紙に包んで出てくるけど、実際には、包まれたままやりとりされて、中身をばらばらにはしなかったとも聞く。

2014-02-24 06:33:55
茂木健一郎 @kenichiromogi

むお(6)ヤップ島の巨大な石貨は有名だけれども、あれも、いちいち日常的にやりとりしていたものではもちろんない。そもそも、昔は、貨幣そのものがモノとして貴重だったのであって、日常の細々としたやりとりにすべて貨幣が介在していたのではない、くらいのことは想像できる。

2014-02-24 06:35:09
茂木健一郎 @kenichiromogi

むお(7)今は、日銀が大量の貨幣をつくってくれているから、コンビニでもどこでも、一円単位まで実際にコインをやりとりする(最近は電子通貨も多いけれども)のを当たり前だと思っているが、昔は、そもそも貨幣自体が貴重で十分に流通していなかったわけだから、そういうわけにはいかなかった。

2014-02-24 06:36:18
茂木健一郎 @kenichiromogi

むお(8)いちいち貨幣をやりとりすることなく、その場その場で適当に、あるいは「つけ」として済ませていたのは、貨幣そのものがなかったからだろう。落語で、大晦日に一年分のつけを払う話があるけれども、あれも、いちいちやりとりする貨幣が不足していたからまとめて、ということかもしれぬ。

2014-02-24 06:37:43
茂木健一郎 @kenichiromogi

むお(9)そもそも、貨幣なんてなかった時代から、人類は何とかたべものを分け合い、所有物をやりとりしていたわけで、一円単位まできっちりと、というのはせいざい最近のことに過ぎない。認知プロセスの問題としては、むしろ、お金がモノとしてない状況でどんな協調が生じるかの方が面白い。

2014-02-24 06:39:17
茂木健一郎 @kenichiromogi

以上、連続ツイート1176回「昔は、お金が(物質として)なかった」でした。

2014-02-24 06:39:57