オルテガの『大衆の反逆』を読んでみよう。

屋代 聡(yasirosatoru)さんが ホセ オルテガの『大衆の反逆』について分かりやすく解説して下さっていたのでまとめました。
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屋代 聡 @yashirosatoru

今日はフォロワさんと話すうちに、民主主義や世論、大衆について語るなら、オルテガ『大衆の反逆』を読んでからにしましょうという話題になりましたので、少し呟きます。

2014-04-01 14:19:53
屋代 聡 @yashirosatoru

ただ僕自身、読んだのはずいぶん前なので、細かい点が違っていたらごめんなさい。また内容をつらつら書くのも何なので、歴史的な話もちょっと織り交ぜて、皆さんが今夕、本屋に行きたくなるように、呟いておきますね(できるかな)。

2014-04-01 14:20:57
屋代 聡 @yashirosatoru

オルテガ『大衆の反逆』は1930年に出された書物ですが、政治学、社会学、メディア研究や近現代史を考える際には必読の文献です。そうでなくとも我われが生きる大衆社会の特質を考えるとき、大きな示唆を与えてくれます。

2014-04-01 14:21:54
屋代 聡 @yashirosatoru

オルテガのいう「大衆」は次のように整理されています。 「みずからを、特別な理由によって―よいとも悪いとも―評価しようとせず、自分が《みんなと同じ》だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そのような人々全部」

2014-04-01 14:22:31
屋代 聡 @yashirosatoru

またこうも言っています。 「自分になんら特別な要求をしない人である。(彼らにとって、)生きるとは、いかなる瞬間も、あるがままの存在を続けることであって、自身を完成しようという努力をしない。」

2014-04-01 14:23:37
屋代 聡 @yashirosatoru

これはニーチェが畜群と呼んでいたものに相当しますが、我われにとっても思い当たる節がある定義ですね。他人と同じであることを求め、またそのことに安住する。それでいながらそのことを「自分らしい」と正当化する。

2014-04-01 14:24:06
屋代 聡 @yashirosatoru

これって1930年のこと? 今日の社会にも当てはまるのでは? と胸に手を当てて考えてみる必要がありそうです。 さて僕が言いたいのは、こうした「大衆」は近現代、とくに19世紀末から20世紀初頭になって登場したということです。

2014-04-01 14:25:15
屋代 聡 @yashirosatoru

まず、こうした大衆の出現には、人びとのあいだに「基本的に我われは同じ人間だ。権利において平等であるはずだ」という意識がなければなりません。 不平等や他者との差異が当然視される身分制度が残存していては、大衆意識は発動しないからです。

2014-04-01 14:27:07
屋代 聡 @yashirosatoru

つまり「大衆」の由来の1つは、自由と平等という近代社会の原理に基づき、市民一人ひとりが選挙権を獲得し、発言する権利を意識したことにあるでしょう。民主主義が厄介なものを生みだしたわけです。

2014-04-01 14:28:31
屋代 聡 @yashirosatoru

また一人ひとりのアイデンティティを「仕事」、例えば手工業や農漁業に確保している社会では、「大衆」意識は大きくなりません。 「各々にしかできないものがある」と考える時、人は“自分は他者と同じでいい”とは思いにくいからです。

2014-04-01 14:30:43
屋代 聡 @yashirosatoru

逆に産業社会が到来し資本・企業の集積が進展すると、多くの市民が似たような「賃金労働者」になりますから、仕事にアイデンティティを持ちにくくなります。ましてや大量生産で、みんな似たようなものを所有するようになります。総中流意識も芽生え始めます。

2014-04-01 14:33:42
屋代 聡 @yashirosatoru

そこで人びとは生産や所有でなく、どのような「消費」をするかで自分の「個性」を示すようになりました。 大衆消費社会の登場です。

2014-04-01 14:34:19
屋代 聡 @yashirosatoru

これは19世紀、アメリカ社会に顕著に現れます。事実上、移民とその子孫で構成されるアメリカには、本来“アメリカ人”はいません。「移民」たちは「アメリカ流のライフスタイル」に染まることで“アメリカ人”になる。つまり消費行動への参加が階級・民族的障壁を乗り越えることになっているのです。

2014-04-01 14:35:43
屋代 聡 @yashirosatoru

しかしどのような娯楽が「自分に合っているか」調べるとき、彼らが用いるのは決まって大衆メディアなので、結局、「個性」を発揮することは容易ではありません。

2014-04-01 14:36:26
屋代 聡 @yashirosatoru

ところで知識人であろうとなかろうと、自己の状態に満足して何かを語って済ますのであれば、その人は「大衆」です。 大衆か貴族かの違いは、知識の多寡ではなく心理的事実、いわば生きる姿勢によるのです。

2014-04-01 14:37:16
屋代 聡 @yashirosatoru

むしろオルテガは新たに「知」という文化資本を獲得したことによって支配者層にのぼってきたエリート層も、本書で強く批判していると言えるでしょう。

2014-04-01 14:37:42
屋代 聡 @yashirosatoru

なぜなら学者はどうしても専門研究を持っており、迂闊にもそれだけに邁進すると、自分の専門だけを知り他は何も知らないということになります。そして専門研究に詳しいことが評価対象となるので、一般的にはますます無知になります。 これは大衆の心理そのものですね。

2014-04-01 14:38:28
屋代 聡 @yashirosatoru

そして細分化された科学が都合よく大衆に利用されることになります。

2014-04-01 14:38:51
屋代 聡 @yashirosatoru

さらに考えてみましょう。人がこの社会の他の誰かと同じでありたいと思っても、社会に流布している情報や価値観、語彙に触れて、それを共有するには、いくつか前提があるはずです。

2014-04-01 14:39:59
屋代 聡 @yashirosatoru

1つには言語の統一です。例えば1つの国家内で言葉が統一されていない(文法や表記が形式化されない)なら、国家内で情報を共有することはできません。

2014-04-01 14:40:29
屋代 聡 @yashirosatoru

仮に文法や表記が形式化されたとしても、市民の識字率が向上しなければ、意味がありません。それゆえ大衆の登場には、19世紀末の公教育の整備と就学率の向上、そして親が子どもたちを学ばせるメリットの顕在化=メリトクラシーの有効化が不可欠でしょう。

2014-04-01 14:41:45
屋代 聡 @yashirosatoru

くわえて識字率の向上を前提にした大衆メディアが必要です。現代の大衆メディア、たとえば新聞、雑誌、小説、ラヂオ、TVが人びとに同じ情報を(場合によっては瞬時に)共有させることは多言を要しませんね。

2014-04-01 14:42:41
屋代 聡 @yashirosatoru

かように、広範な政治参加、産業社会の到来と、科学の発展、そしてメディアの発展が大衆社会を生みだすのです。

2014-04-01 14:43:21
屋代 聡 @yashirosatoru

さて大衆は自分たちが支配的立場にいるとは思っていますが、優れているとは考えません。自分を「ごく普通の」市民と標榜します。自らの感覚が「普通」なのであり、周囲もそうなるべきであり、換言すれば、これになびかぬ“少数者”を弾圧さえします。

2014-04-01 14:43:55
屋代 聡 @yashirosatoru

大衆の言動に根拠は要りません。学ばないからこそ「大衆」なのです。何の熟慮も内省も、また遠慮もなく、自らの「感覚」を他者に強要します。学べよと言っても聞き入れません。 なぜなら凡庸であることこそが、彼ら大衆の特質だからです。彼らは凡庸であることの権利を主張します。

2014-04-01 14:44:49