力は「有」なのか「無」なのか@光岡英稔

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光岡英稔 @McLaird44

物事の発生は必ず“無”から「有」へと向かう、武の稽古にしてもそうである。ただ人が物事を認識したり、理解する枠が「有」から始まるが故に皆が「有」を見る様に習慣付いているだけである。しかし、その「有」は完全に主体から離れているバーチャルな客観的身体と客体である。⇒

2014-04-22 17:19:28
光岡英稔 @McLaird44

その「有」を現実の全てだと思い込んでいる習慣から抜け出すには“無”を直感できる稽古から始めなければ如何様にもならない。「有」から「有」を求めると何れ必ず行き詰まり、滞りが生じ、身体や気持ちが固止してしまう。⇒

2014-04-22 17:20:43
光岡英稔 @McLaird44

“無”を直感できたら、そこからは“無”の更に虚ろな処を直観する稽古が必要となる。これは現象としては“無”から「有」へと向う体感が発生することであり、技法や術としては「有」から“無”へと向かうことであり「有」を手がかりに感じている身体の層界を体観することができる。⇒

2014-04-22 17:23:26
光岡英稔 @McLaird44

術や技法をもって一度「有」から“無”に帰ることで“無”から「有」へと向かう自然な流れへが生じ整力が発生する。整力の働きなくして身体が纏まり整うことはない。⇒

2014-04-22 17:24:07
光岡英稔 @McLaird44

また“無”の体層にも幾つもの身体があり、より深い層での整力は偏整力として“無”から「有」へと偏り整って行く。調整する身体は「有」に属す身体であり、“無”の身体は偏整からなる様である。

2014-04-22 17:27:22
光岡英稔 @McLaird44

“力”は果たして「有」なのか“無”なのか。これを六合の内三合『心⇔意⇔気⇔力』から観ると「心、意、気」は“無”の属性になるが“力”は有形化することがある。⇒

2014-04-22 23:40:21
光岡英稔 @McLaird44

また、「心、意、気」は“力”を通じてでしか表の世界に現れることがなく、物理的世界に作用することもない。この物理的世界への作用に“力”の錯覚がある。⇒

2014-04-22 23:40:45
光岡英稔 @McLaird44

内三合は『心⇔意⇔気⇔力』が互いに合うことからなるとされているが、この内三合を体層で考えると「心、意、気、力」が各体層にある働きとして捉えれる。各層の身体の働きが互いに交わる真象を整理し少し観やすくしているのが六合の内三合である。⇒

2014-04-22 23:42:14
光岡英稔 @McLaird44

内三合の“力”以外の「心、意、気」は“無”の体層にあり、我々には見えず捉えられない働きである。“力”の本は“無”であるが、“無”から“力”が作用し表に現れた時には肉眼でも見てとれることから“有”と見てしまうことが多い。⇒

2014-04-22 23:43:03
光岡英稔 @McLaird44

また、“力”以外の内三合「心、意、気」の関係が確認がとれず理解できない身体の層にあることから、多少でも確認がとれ理解できる層にある“力”だけを見てしまう傾向を殆どの人が持つだろう。⇒

2014-04-22 23:53:02
光岡英稔 @McLaird44

“力”を英訳してみると『power,force,strength,ability,energy』と多様に訳せる。⇒

2014-04-22 23:53:36
光岡英稔 @McLaird44

例えば『energy,ability,strength』としての“力”は物理的には見えない“無”に属す“力”となる。それに比べて『force,power』は作用を肉眼で確認できる「有」の“力”である。近年の日本や中国においての“力”の定義はパワーやフォースに近いものがある。⇒

2014-04-22 23:54:17
光岡英稔 @McLaird44

内三合で云う“力”には確かにリニアーではない「心⇔意⇔気⇔力」の“Realm shifting”的な伝達性はある、働きとしては表に有形化していない「力源」と結果的に作用が見える“力”の因果関係が表れる所までを“力”と言う。⇒

2014-04-22 23:56:44
光岡英稔 @McLaird44

しかし、結果的に発生した“力”から其の源を求めると“力”もまた虚ろにしか感じられない“無”が発生源であることが伺える。内三合「心、意、気、力」は内なる“無”の体層に属す異なる身体の層界にある。

2014-04-22 23:57:55