つらつらと、ずっと不思議だったことを考えた。どうして承認ライン強めの人をそこまで叩くんだろって。確かに介護的に関わらないと怒ったりガッカリされると、こちらは大変に気を使う。そして、胸が痛むからこちらは介護的になって疲れる。どっちも疲れるので、あまり好かれなかったり、面倒がられる。
2014-04-23 10:35:19なので、承認欲求を強く暗示的に出されると、だいたいウザがられる。顔に出すか出さないかの違いで、ウザがられることは、間違いなく多いだろうとは思う。だから、それで損するのは、結局はウザがられる承認欲求ほとばしらせる方なんだよな。
2014-04-23 10:41:53でも…と思う。結局、胸が痛んで介護的になるのは、なる方にそれこそ聖人欲求があるからだ。聖人になるなら、叩くより、「それ損しますよ」って教えてあげればいいだけで、叩く必要ないんじゃないかなぁと。叩いたところで、劣等感拗らせるだけで、その拗れた劣等感で、かえって面倒くさくさせちゃう。
2014-04-23 10:45:26聖人欲求で、胸が痛んで、そして介護的になる。介護を健常者に要求されるのは、なんだか理不尽だと思うかもしれない。単に面倒くさいだけかもしれない。ただ、嫌なら介護しなきゃいいだけなんだよな。
2014-04-23 10:49:58変えてあげたいなら、叩くより、それ面倒くさいです、って相手にせず、要介護的じゃなく参加?してきたら仲良くニコニコしてあげてると、人間、勝手に無意識的に学ぶ。変えてあげるとかなんとかないのなら、サクっと無視ればいいのだし。なにも叩く必要はないんじゃないのかなぁ。
2014-04-23 10:52:30教えてあげて、あとは相手の課題だもの。それを叩くのは、結局は、俺を不快にさせるな!と言うのと何が違うのかなぁ。承認欲求vs聖人欲求、の戦いみたいだ。
2014-04-23 10:54:11なんだろな、叩く行為には、なんらかの怒りめいたものを感じる。怒りの感情は、自分は正しく相手は悪い、という構図が、その底にあるんじゃないかと思う。自分は正しいから、叩いてもいいのだ、という無意識の理論。あるいは単なるジャイアン的な俺の思い通りじゃないのは気に入らない!という支配性。
2014-04-23 11:04:19昔、イカッシー(ドライカースサマーセミナー)に一度参加者したとき、何十年もアドラーをやってるおじいちゃんおばぁちゃんの、大先輩アドレリアン達は、ホントに怒らない人たちだった。かわりにハッキリものを、言う。優しくキッパリ!とアドレリアン達はよくいうけど、こういうことなんだなと思った
2014-04-23 11:07:05私はそれからも相変わらずよく怒ってるジャイアンだけど、最近になって、やっと、しみじみ課題の分離ってそういうことかぁ、と理解してきたような気がする。介護するかしないかは、こちらの課題だ。仮に介護されなかった時どうするかは、相手の課題だ。
2014-04-23 11:10:04それを介護しておいて、叩くのは、それこそ理不尽なんじゃないのかなぁ。介護するなら叩かない、それが自分の行動に責任を持つということなんじゃなかろうか。嫌なら介護しなきゃいいのだから。
2014-04-23 11:11:48@kiss_to_killy そんな面倒くさい人じゃないと付き合ってくれないぐらいに、「叩く人」も寂しいのだ、と私は思います。
2014-04-23 10:57:38@kiss_to_killy なるほど、集団で叩く現場の事を念頭に置いていたのですか。確かによってたかっては暴力的ですね。 私はでもそこに叩く人の寂しさ哀しさを見てしまうのですよ。で、数を頼めると思ったらそれによりかかってしまうところとかも、弱さの表れかなと。
2014-04-23 11:02:16@templa_3 そうですね。数を頼ると暴力的だし、1人でやるとジャイアンだしw とはいえ、弱さを持たない人なんてそうそういないから、それは弱さだと言っちゃうと、なんか変な自己啓発みたいで、それはそれでなんか怖いw 別に強くならなきゃいけないわけでなくて、弱いとしんどいだけ
2014-04-23 11:16:27