- tebasaki_s
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デジタル化された海軍制度沿革や内令提要の記述を漁って改正を追ってみるのはかなり楽しい。 分厚くてクソ重い本物と違って扱いが楽だし、何よりページをめくっても破れる心配が無いのが最高だ。 紙だと他の場所の記述と突き合わせる気力が出ないから。
2014-06-22 02:29:00自分の所有物でもない史料をめくる度に折り込み部分の折り目がピリピリ破れちゃうとか、糊で端っこだけ付けてある訂正紙が剥がれちゃうとか、精神衛生に悪すぎる。
2014-06-22 02:37:52例えば、砲術科の指揮系統が改められてまともに斉射が指揮できる組織になったのは、大正2年12月から4年8月にかけての3本の内令で段階的に射撃幹部の仕組みが整えられてからなんだけど……要するに、金剛の現物が手に入るまで、お話が全然進んでなかったんだなとかいう。
2014-06-22 02:56:24大正2年12月16日、まず先行して砲火指揮幹部付属員という下士卒の配置だけが規定される。 大正3年8月26日、砲火指揮官、射撃号令官などの砲火指揮幹部員が規定される。 大正4年7月8日、砲火指揮幹部から射撃指揮幹部に改編される。(8月じゃなかった)
2014-06-22 03:09:33大した記述の無い下士卒の配置だけ先に決めてたり、WWIでの対独宣戦布告の3日後に慌てて規定を明文化してたり、それから一年と経たずにまた改正してたりグダグダの状態である。
2014-06-22 03:12:27こういうの見ると、河内や摂津でも斉射が出来たとか聞いても、それって全部金剛からノウハウ持ってこなかったら出来なかったよねとしか思えない。
2014-06-22 03:21:09@DryGin144 明治40~41年の時点で一斉打ち方の指導要領の草案ができてるので(主に日露戦争の経験)一応出来るように進んでいたけど、まあ色々試行錯誤がすったもんだで以下略で洗練されてないっぽい
2014-06-22 03:34:50なお艦砲射撃の歴史に薩摩がド級に負けてないという理屈が色々書かれてるけど、ぶっちゃけると「近距離だから同一指揮で同一弾着だ」「徹甲弾カスだから弾数勝負だし」という身も蓋もない話
2014-06-22 03:37:07@sudo_simoigusa 号令官とかの仕組みはそこに入っているのかな? 命令伝達系統の仕組みをキチンと試すのって結構大変だと思うんだけど。
2014-06-22 03:38:07大正2年から4年の射撃幹部の規定による変化で何が大きいかというと、それまで砲術長一人に集中していた職務から射撃の直接指揮を切り離して複数人で分担できるようにしたことと、号令官などを用意して伝達系統を明確化したことだ。
2014-06-22 03:43:05戦艦薩摩についていうと、砲術長は主砲30cm砲4門、中間砲25cm砲片舷6門、合計10門を統合指揮した。名は主砲砲火指揮官と云ったであろう(中略)
2014-06-22 03:46:52照尺距離や、苗頭を砲側に伝えるのは、号令官の仕事である。これは分隊長の若い大尉で、小さい軍艦では主砲の号令官は中尉、稀に少尉のことがあった。薩摩などでは副砲の号令官は中少尉だった。
2014-06-22 03:47:02発令所に射撃指揮官の号令を伝えるのには伝声管、高声電話、電気的通報器が用いられた。伝声管以外は輸入品であった。電気的通報器は直流のステップモーターによった。数年使った大正6年(1917)ころになると故障がよく起きた
2014-06-22 03:50:16規定上は、大正3年に砲火指揮官、砲火分担指揮官、分火指揮官と射撃号令官が定められる。 そして、大正4年になって、主砲指揮官、副砲指揮官、分火指揮官と主砲号令官、副砲号令官、分火号令官に改められている。
2014-06-22 03:50:57薩摩の電気的通報器の例を見ると、金剛と同時期に導入されてるんだと思うんで、この射撃システムが作られたのは金剛と同時期だと想像してみたり
2014-06-22 03:51:52大正4年の改正では、主砲指揮官、副砲指揮官、分火指揮官の総称として射撃指揮官が定められると同時に、砲火指揮官の職務に有った射撃の全般指揮が主砲指揮官の職務から消えている。
2014-06-22 03:53:37@DryGin144 じゃあ、ちょうどその頃のことなんだろうね。やっぱ金剛ちゃんと同時だ。でも一応今までウダウダやってたことが、デースの導入をキッカケとして一気に切り替わったというかカタチになったのかな
2014-06-22 03:54:11