相手の立場が見えない/を決めつけることと、虐待的な親のような場所になってゆく世の中
- hijijikiki
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●spitzibara氏のブログ【海やアシュリーのいる風景】:
★「人工呼吸器ユーザーが語る尊厳死法制化への懸念 2013/12/21(土) 午後 4:01」http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara2/63791560.html
「
(....省略....)
実を言うと、このとき私は生まれて初めて、
人工呼吸器ユーザーを含めた重症身体障害者といわれる人たちが
わんさと集まっている状況の中に身を置いた。
やっぱり
私が日ごろ馴染んでいる重症心身障害児者の世界とは、ずいぶん違う。
目を見張った。
正直、すごい異文化体験だった。
(....省略....)
なんというか、やっぱり世の中には
おのれの目で見て、直接体験しなければ
頭だけではわからないことがあるんだ、と痛感するし、
(....省略....) 」
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● 以下 ↓ は、上記spitzibara氏のブログ記事のコメント欄でのやり取り。
(spitzibara氏とhijijikikiの投稿のみ抜粋しました。URLは後で追加)。
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@hijijikikiの投稿:
こんばんは、@hijijikikiです。
『私は生まれて初めて、人工呼吸器ユーザーを含めた重症身体障害者といわれる人たちがわんさと集まっている状況の中に身を置いた。‥‥目を見張った。正直、すごい異文化体験だった。』>私も似たような経験を2005年の『4月集会「尊厳死っ、てなに?」』(arsviにあります)http://www.arsvi.com/d/et-2005a.htmでしました。
このときは、超党派議員による「尊厳死法案」の立法化の動きが始まり、急遽企画された集会で、超出不精な私も、立岩さんや川口さんのネット情報で、これは行かねば、と思ったのですが。そのような危機感のせいか呼吸器を付けたALSの人たちが、ストレッチャー(寝台)型の車椅子?などで数十人+介助者で都心の会議場に来ていました。
講演が始まって会場が静かになると、数十人分の呼吸器の音と、痰の吸引器の音だけが聞こえるのです。まるで「あなたたちは、今こうやって生きている私(たちの)呼吸器を止める/外すのか?」と言っているかのような。
2013/12/25(水) 午前 1:55 [ @hijijikiki ]
更に、集会の最初に、ALS難病支援団体さくら会の会長でALS当事者の橋本操さんの文字盤での「スピーチ」。テレビなどでは見ていても、実際に見るのは初めてで、たしか「桜が散ってしまいました‥」というような“お話し”でした。
ALSの人たちと介助者、呼吸器と痰の吸引器の音、橋本操さんの「スピーチ」、の圧倒的な存在感。
そのとき、プレゼンスという言葉を思い出しました(昔さんざん聞きまくったロックグループのレッド・ツェッペリンの同名のアルバムがあるので)。
「在日米軍のプレゼンス」、軍隊がそこに存在するだけで示威効果がある、現前しているというような意味でしょうが、正反対の弱い立場に置かれた人たちが示すプレゼンス・現前を肌で感じたというか、他の講演よりも何よりも、彼女ら/彼らの存在感の衝撃がいまだに記憶に鮮明に残ってます。
2013/12/25(水) 午前 1:56 [ @hijijikiki ]
この集会では、尊厳死協会理事長の井形昭弘氏が招待されずに来ており、立岩さんに発見されて発言を求められて長々と反論を述べ、それへの再反論があったりで、大変印象的な会だったのですが、それらはあまり記憶に残ってません(笑)。
同じような衝撃的な経験は、ユニークフェイスの会の人が小学校で講演して、子どもに自分の顔の大きなこぶを触らせている写真が一面に掲載された新聞記事を見たときです。
無理なくカムアウトできる人は、カムアウトする=日常的に“健常者”と接することにより、世の中・社会の通念や常識や偏見などなどを変える力があるのでは、と思いました(これができない世の中・社会が最大・最悪の問題であり、そうしやすいように社会を変えることがまず第一の課題であることはもちろんですが)。
2013/12/25(水) 午前 1:58 [ @hijijikiki ]
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spitzibara氏の投稿:
その集会のことは多少読みかじってはいるんですけど、やはりその場におられたhijijikikiさんの描写がすごい。プレゼンスと言われるのも、分かる気がします。人がひとり生きて、そこにいる、ということの存在感には何か圧倒的なものがありますよね。私もこの前、会場に集まっておられる方々を見ながら、今こここに現前している光景そのものが力であり希望であるはずだ、という思いがありました。
あまりにも多くの人が障害の現実に直接触れることも無く、その現実を知らないままにステレオタイプなイメージで思い込んでしまっている。それは実は障害者と家族の間でも、それぞれ自分の目の前にある以外の障害像には目が向かないという形で存在している問題なんですけど、まずは「知らないんだ」と気づくことが大事だし、おっしゃるとおりですね。
2013/12/25(水) 午前 10:42 [ spi*zi*ara2 ]
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@hijijikikiの投稿:
「障害の現実に直接触れることも無く、その現実を知らないままにステレオタイプなイメージで思い込んで」>はい。支援級などと普通級を分けない統合教育が重要なのは、まさにこの「現実に直接触れる」こと、日常的に接することだと思います(全ての時間一緒に居なくても、一定時間同一の場所に無理なく一緒に居られるような環境を作ることが重要かと)。
そして、ご指摘の「障害者と家族」の間にある問題は、“日常的に接して”いても見えない、すれ違う、食い違ってしまうなどなどという、更に困難な問題があるかと思います。
この「障害者と家族」、当事者と家族と支援者などの間に生じる食い違いや、葛藤や軋轢は、前にご紹介した宮地尚子『環状島』での当事者と支援者の間の問題や、最近よく聞く話題の“(母親が過干渉の)母娘関係”問題、ちょっと前のアダルトチルドレン(AC)問題などとも、通底するところがあるような気がします。
2013/12/26(木) 午前 0:58 [ @hijijikiki ]
相手の状態を見ずに/が見えずに、又は勝手に想像して決めつけて、自分が“こうあるのが正しい”と思う行動を取ったり、自分が世間や周囲から期待される(と思っている)役割や行動を世間や周囲を忖度して取ってしまったりするような問題があるのでは。
最近見たブログ“田房永子の女印良品”の「おしゃれカフェの床を拭く私のしつけ論」http://www.lovepiececlub.com/lovecafe/mejirushi/2013/12/25/entry_004178.htmlにある、
『‥「迷惑がられるにちがいない」と自分が思い込んでいるせいだ。私は、知らない人に注意されたりするのを怖がっている。世の中が「子供のしつけは親の仕事」ってことになっているから、無意識にやらないといけないと思って拭いたりなんだり体が勝手に動いている』
ようなことが日常生活にはごく普通にあり、たいていの日常はそれで“回っている”のだと思います。
それで“回らない”ことは隠蔽されて、「ないこと」にされ、そのような繰り返し・循環で世の中・社会がどんどん嫌なものになって行く。
spitzibaraさんのこのブログやご著書などは、それとは違った形の“現実”やものの見方や考え方、対処の仕方があることを具体的に示して、気付かせてくれていると、拝読するたびに感じています
2013/12/26(木) 午前 1:00 [ @hijijikiki ]
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spitzibara氏の投稿:
”田房永子の女印良品”、面白かったです。私にも、ずっと、「世の中がどんどん虐待的な親のような場所になっていく」という感じがあって、ここに書かれている母親の心理もそうですし、最近、庶民の間でも声高になってきた「だって国にお金が無いんだから(弱者切捨ても)仕方ないじゃないか」と、その「切り捨てられる弱い側」にいる人たちが自ら「切り捨てようとしている側」の論理を(妙に高圧的に)代弁してみせる心理もそうだと思うんですけど、「過剰に忖度する」とか「期待されている行動を自ら先回りしてとる」といった行動はACに特有ともいえますよね。
そしてhijijkikiさんの表現がまさに突いていると思うのですが、「相手への想像力が無い(から相手の存在そのものを見ない)」「決め付ける」「正しさの白黒をつける」「都合の悪いことは”ない”ことにする」というのもまた、ことごとく虐待的な親の行動特性でもある気がします。
2013/12/26(木) 午前 8:45 [ spi*zi*ara2 ]
この両方が噛み合って悪循環を形成し、おっしゃっている通り「世の中・社会がどんどん嫌なものになって行」っているのが現状なのかなぁ、と。この循環を断ち切るためには、一番簡単なのは「親」のほうが自分がいかに虐待的であるかに気づき、自覚することでしょうけど、ACの問題でもそうだけど、「親」のほうが自ら変るということはなかなかなさそうに思えるので、まずは「子」の側が「自分は虐待されているんだ」ということに気づき、その事実をしっかり受け止めることにしか糸口は無いですよね。
でも、これまたACの問題でもそうであるように、より深く抑圧されている人ほど、より強い現実否認に逃げ込んでいて、気づくことを拒否する。誰かに現実を突きつけられそうになると、そんな自分が脅かされることにパニックして、自己防衛的になり過剰に相手を攻撃してかかる。……そういうことが身の回りで増えているような気がしてならなくて。
2013/12/26(木) 午前 8:59 [ spi*zi*ara2 ]
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@hijijikikiの投稿:
ご指摘の、「切り捨てられる弱い側」にいる人たちが、
「だって国にお金が無いんだから(弱者切捨ても)仕方ないじゃないか」
と言ってしまうようなこと。
お上や権威に従順な事大主義、寄らば大樹の陰という考え方や処世術だけなら、うわべだけ従って見せて、本音は別の所にある、面従腹背のようなやり方が、切り捨てられる側にもっと多くてもよいと思うのだけど、そう考えずに、「自己責任だから仕方がない」、更に「切られる方が悪い」とまで思っている人が増えている感じは、私もしてます。
この背景には、ご指摘のように、「過剰に忖度」「期待されている行動を先回り」があり、それは自分が「普通」から外れていない、自分が世間並みで、後ろ指さされずに人並みにやっている(仮に現在はそうではなくても、そうなれるはずだ)という“普通から外れることへの恐怖”があるのでは。
2013/12/27(金) 午前 2:54 [ @hijijikiki ]
それは、11月中旬にやり取りして頂いたときにお話しした、学校などで刷り込まれてきた同調圧力や能力・業績主義が背景にあり、できないのは努力が足りないからで、頑張ればできる=普通になれるはずだ、という思い込み/思いこまされ、イデオロギーがしみ込んでいるように思います(私も勤め人やってたときまではこれに浸食されてました)。
更に、この能力・業績主義と“頑張ればできる“=ガンバリズムに加えて/の背景に、これもそのときにお話しした、”人に迷惑をかけてはいけない“ことを過度に気にするというような、負い目・負債を過度に嫌う風潮や人間関係における心性があるのでは、と思います。
そして、能力・業績主義的な考え方は、刷り込まれるだけでなく、それらが「尊厳」という言葉と同様に、
『「王、権力者、強者」の属性を表す言葉であり、それは一般に羨ましがられ、信奉され、憧れのまとになるような属性を表す言葉』
であり、言葉の意味内容から明らかなように、多くの=普通の人が「私も(いつかは)そうなりたい(その仲間に加わりたい)」と思うから、ということもあるのではないでしょうか。
2013/12/27(金) 午前 2:55 [ @hijijikiki ]
ナショナリズムなどの背景には、この様な自発的同化・同一化・服従があるのでは、と思います。
話を戻して、この様にして形成された“悪循環”を断ち切るには、ご指摘のように『まずは「子」の側が「自分は虐待されているんだ」ということに気づき、その事実をしっかり受け止めること』が、とりあえずの苦境を脱するための第一歩だと思います。
この例として、最近読んだ、これも田房永子さんのコミックエッセイ「母がしんどい」http://www.amazon.co.jp/母がしんどい-田房-永子/dp/4404041691があります。冒頭に:
『 うちって「普通」なのに、なんだか「普通」じゃない。
お母さんが重苦しい。
そんな私が、
お母さんから逃げて失敗して、逃げて失敗して
ついに逃げ切るまでのお話です。 』
とあるような内容で、悪循環からの脱出(途上であれ)の一つの例として、こういうエッセイや語りがたくさん出て欲しいと思ってます。
2013/12/27(金) 午前 2:57 [ @hijijikiki ]
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spitzibara氏の投稿:
「尊厳」がもともとは王や権力者だけを想定したものだったというのは、私もこの前、土井健司先生の「トニー・ブランドの悲劇」http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara2/63722612.htmlを巡るお話で初めて知ったんですけど、そういう時代から世の中の仕組みというのは変ることなく続いているんだなぁ、と再確認すると同時に、土井先生のお話の趣旨が、そういう時代から人類が営々と努力して築いてきた「人権」という概念を今ここで擲とうとしていることへの問題提起だということが、そういうお話に続いていることの重みとなって感じられもしました。
本当に悲しいですね。虐げられている人は、自分を虐げている側を惧れと憧れをこめて見上げ、自ら進んで迎合し服従し、そして強者に自己同視した言動で自分と同じ境遇の人を見下してみせることで、現実の自分から目をそらせ自尊感情の修復作業をやり続ける。でも、現実否認による無限の修復作業を必要とする張りぼての自尊感情は脆弱だから、どんどん過剰に自己防衛的になっていくばかりで。
2013/12/27(金) 午前 8:41 [ spi*zi*ara2 ]
田房さんの作品、面白そうですね。ACは「子が自分の生き辛さを親の責任にして現実否認をする」という問題ではなく、「子が”幸福な親子関係”という幻想に逃げ込んでいた、それまでの現実否認から脱却して、自分が置かれていた厳しい現実をありのままに認め、受け入れて自覚的に生きていこうと腹を括る」という問題だと私は捉えているので、hijijikikiさんのコメントの最後が「娘が母から逃げる」話であることがとても象徴的でもあり、また腑にも落ちます。
また、科学とテクノロジーで身体や命の操作が可能になりつつあるなか、それらを武器に圧倒的な支配力を身につけた「親から子が逃げる」というテーマが、別の意味でもとても重要になっている時代だとも感じています。
そんな時だからこそ、私もhijijikikiさんが言われるように、障害者や女性などの社会的弱者がそれぞれがどのような体験をしてきたのか、自覚的に生きようと腹を括った「子」たちがそこに立って初めて見えることを語る声が、もっともっと出てくることが大事だと思っています。
2013/12/27(金) 午前 8:54 [ spi*zi*ara2 ]
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@hijijikikiの投稿:
『世の中の仕組みというのは変ることなく続いて‥そういう時代から人類が営々と努力して築いてきた「人権」という概念』>はい。人類史上、富の集中が生じた後、少なくとも西洋近代社会では、支配階級と被支配者を巡る“世の中の仕組み”の、いろいろな歪みや弊害には類似の所が多いのかと。
(富の集中以前の、狩猟採集文明との違いについては、拙まとめ『アマゾンの密林で狩猟採集生活するヤノマミには、「現代文明人」と同様の“内部化された集団心理”があるか?』http://togetter.com/li/318613に書きました)。
この歪みや弊害に対処するために「人権」などの概念が生まれ、「革新派」の人々が自由や平等を実現しようとしてきたのでしょう。
しかし歴史を見ると、改革や革命が起こっても、できた新たな権力が腐敗したり、保守反動による反革命やバックラッシュが少なからず起きているようです。しかし、奴隷制度や人種差別、女性差別などは、反動があっても、全てが元に戻るわけではなく、少しずつではあれ改善されているのでは。
2013/12/28(土) 午前 2:06 [ @hijijikiki ]
目の前の強烈な右傾化・保守反動を見ると、絶望的な気持ちになりますが、前にspitzibaraさんたちが「自分の中の、ぐるぐる回りのらせん」というふうに言われた(拙まとめ『緩和ケアの差別的な使われ方と、ロー・セオリーからの反撃』http://togetter.com/li/485134に収録)ことを拡張して、歴史的にも反動やバックラッシュで元に戻るように見えても、少しずつ進んでいることもあり、進めている人もいるのではないかと思います。
ご指摘の、「科学とテクノロジーで圧倒的な支配力の“親”から逃げる」から、
村瀬学『自閉症―これまでの見解に異議あり!』http://www.amazon.co.jp/自閉症―これまでの見解に異議あり-ちくま新書-村瀬-学/dp/4480063072にある:
「文明の中では、私たちは例外なく「おくれる存在」なのである。障害があろうがなかろうが、そんなことには関係なく、私たちは「おくれる存在」なのである。‥すでに後から「文明世界」に入るものとして、私たちは本質的に「世界」からは「おくれ」ている」
という指摘を思い出しました(拙まとめ『ヤノマミや発達障害と“我々”は連続しているのか:正常と異常の境界、言葉と因果的思考』http://togetter.com/li/339670に一部引用有り)。
2013/12/28(土) 午前 2:07 [ @hijijikiki ]
この村瀬氏の指摘に、「文明を積み上げてしまった“現代文明人”は、文明から常に「おくれ」ており、だからこそ文明の成果を全ての人にちゃんと分配するべきである」、というような主旨の話しが続いたと記憶してます。
一見すると、「逃げる」と逆方向のようですが、今ここで生きている人間をまず第一に考えて、それを中心に「文明」や「能力」を問い直し、位置付け直すという点から見れば、両者は表裏一体のように思えます。
文明や科学とテクノロジーの作り上げたもの・システム・複雑化した人間関係などを、場合によっては利用し、場合によってはそれから逃げる。
それ、身の振り方や対処のしかた、を決めるのは事態に直面している当事者であり、特に弱い立場に置かれた人が、自分の経験や失ったもの・得たものを他の人に伝え・共有し・交換することが少しでもしやすいような場(このブログもそうだと思います)を作り、そのような機会を作ることが、「よい循環」を作ることにつながる、と改めて思いました。
2013/12/28(土) 午前 2:09 [ @hijijikiki ]
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spitzibara氏の投稿:
「逃げる」というのは、あくまでも「子」の側の視点であり行動で、村瀬氏の主張もまた「子」の側からの「よこせ」ですよね。だから表裏一体といえるけれど、村瀬氏の「だからこそ」の転換の先に「親」はむしろ「だからこそ一番おくれている人々を切らないと全員が文明に追いつけなくなる」と続けるのかもしれない。……という具合に、hijijikikiさんとお話しすると、どうもいつもhijijikikiさんは希望をspitzibaraは絶望を見ているような落差を感じて忸怩たるものがあるのですが。
2013/12/28(土) 午前 7:58 [ spi*zi*ara2 ]
各国が財政的にひっ迫しているのは富の急速な遍在の結果でしょうし、目の前の右傾化・保守反動の一つ外側には、そうしたグローバルな事情の中で各国とも生き残りそのものが危うくなっている事情があるんだろう、と。アシュリー事件からこちら見てきた世界で一番強烈に感じているのは、グローバルなネオリベ世界の利権構造の中に取り込まれてしまった科学とテクノロジーの論理の暴力性なんですけど、それが上記の事情と繋がって、国家がその暴力性に従属しなければ経済が成り立たなくなっている。そんなふうに、もう制御不能となった暴力性はhijijikikiさんがおっしゃっているように少しずつ前に進んできたものを問答無用に蹴散らかし踏みつけていこうとしていると思えてならない……みたいなところがあって。
すみません。私もhijijikikiさんのように個々の人が繋がり、言葉で伝えることを通じて希望を、と思うのですが、どうもこの年末はニュースのいちいちに気分が滅入ってしまいます。年越しで気持ちを切り替えたいと思います。また来年もよろしくお願いいたします。
2013/12/28(土) 午前 8:12 [ spi*zi*ara2 ]
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@hijijikikiの投稿:
いやー、年末押し詰まってから、延々と失礼しました。
spitzibaraさんとは、同じ考えの所が多いと思ってますけれど、当然のことながら違うところもあり、その同じ所違うところの両方が、やり取りする上で重要だと思っています。
例えば、ご指摘の「国家がその暴力性に従属しなければ経済が成り立たなくなっている」については、私は違う見解で、少なくとも日本や「先進国」では、ものは十分足りているし、むしろものが余って売れなくて困っていると思います。売れないのに貧困が解消しないのは、貧困層に購買力がないから、再分配が適切になされてないからでは。
そのためには、国内と、国家間の貧困や格差の解消と、環境破壊しないような生産及び経済体制が必要なのでは、と思います。
この続きはまた来年、ということで、本年も色々とお付き合いいただき、ありがとうございました。
(今年後半のやり取りをまとめにしてなかったので、近日中に何とかまとめにする予定です)。
来年もまたよろしくお願いします。
2013/12/29(日) 午前 2:10 [ @hijijikiki ]
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●spitzibara氏のブログ【海やアシュリーのいる風景】:
★「トニー・ブランドの本当の悲劇とは何か (前)」
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara2/63722612.html
●『医療や科学の権威と責任/過剰反応やパニックそして能力主義と差別』
●『援助と政治/大局的な思想:ビルゲイツ氏の慈善vs中村哲氏の支援、三宅洋平氏の選挙フェス』
●『尊厳と負い目・負債の扱われ方と能力・業績主義:犠牲/業績の累進性の呪縛』
●『緩和ケアの差別的な使われ方と、ロー・セオリーからの反撃』
●『「どうせ死ぬんだから‥」/『終末期』医療は差別か?』
●『(続)がんばりすぎる障害児の母たち:家族を介護するケアラーをどう支援するか』
●『緩和ケアの差別的な使われ方と、ロー・セオリーからの反撃』
●『アマゾンの密林で狩猟採集生活するヤノマミには、「現代文明人」と同様の“内部化された集団心理”があるか?』
●『ヤノマミや発達障害と"我々"は連続しているのか:正常と異常の境界、言葉と因果的思考』
●『4月集会「尊厳死っ、てなに?」』
http://www.arsvi.com/d/et-2005a.htm
●田房永子「おしゃれカフェの床を拭く私のしつけ論」
http://www.lovepiececlub.com/lovecafe/mejirushi/2013/12/25/entry_004178.html
●田房永子「母がしんどい」
http://www.amazon.co.jp/母がしんどい-田房-永子/dp/4404041691
●村瀬学『自閉症―これまでの見解に異議あり!』
http://www.amazon.co.jp/自閉症―これまでの見解に異議あり-ちくま新書-村瀬-学/dp/4480063072
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