写真家、広河隆一さんの体験した戦争

60年代から何度もイスラエル~中東に行かれていた広河さんの重い言葉。 「現代の戦争は、圧倒的な力を誇る攻撃する側と、市民の犠牲者に分けられる」 「その戦争は、メディアには絶対に流れない」 「だから私は自衛隊に死者が出るからと言う理由で、集団的自衛権に反対するのではない」 続きを読む
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広河隆一 @RyuichiHirokawa

発売中のDAYS JAPAN8月号の編集後記です。  1967年、私は大学を卒業してすぐにイスラエルに行き、2週間後には第3次中東戦争が始まったが、たった10キロ先に戦場があったのに、私は死者には出会わなかった。1982年9月、私はレバノンのベカー高原のパレスチナ病院にいた。続く

2014-07-27 14:42:51
広河隆一 @RyuichiHirokawa

その時周囲に何十発もの爆弾が落ちた。現場に急行する救急車に乗った。空いた巨大な穴を見下ろしていると、救急車の運転手の金切り声が聞こえた。「来るぞ! 飛び乗れ!」。第2波の爆撃の中、病院に逃げ帰ってしばらくすると、人間のどの部分かわからない2切れの体が運び込まれた。続く

2014-07-27 14:43:19
広河隆一 @RyuichiHirokawa

自分がその時何を感じたのか記憶がないが、1回シャッターを切った。これが私の死者の撮影の最初の体験だった。体はブリキ缶に詰め込まれた。次に頭が半分吹き飛ばされた男の人の死体が運び込まれた。かろうじてファインダーを覗いてシャッターを切った。続く

2014-07-27 14:44:06
広河隆一 @RyuichiHirokawa

病院が次のターゲットになるといううわさが流れた。この病院には2人の外国人医師がいて、夜遅くまで、話しこんだ。なぜ自分はここに来たのかという話だった。明日には私たちの体が、数百に吹き飛んで死体になるかもしれないというのに、不思議に静かな気持ちだった。続く

2014-07-27 14:44:35
広河隆一 @RyuichiHirokawa

その夜、どこに爆弾が落ちても何台かは助かるように、救急車はエンジンをかけたまま一台一台離れて配置され、運転手は車の中で待機した。しかし翌朝は濃い霧が立ち込めた。イスラエル軍は「戦果」を確認できない爆撃はしない。私は命を長らえたらしかった。私はベイルートに向かった。続く

2014-07-27 14:46:52
広河隆一 @RyuichiHirokawa

その日大統領が爆殺され、その次の日にはイスラエル軍のベイルート侵攻が開始された。その数日後、私は難民キャンプで何十もの死体にシャッターを切ることになる。処刑された人々は戦争の犠牲者と言えるのか?と、私はからからに乾いた唇をなめながら自問した。続く

2014-07-27 14:47:25
広河隆一 @RyuichiHirokawa

戦場カメラマンとかウォー・フォトグラファーという言葉に嫌悪感を感じるようになったのはこのころからだった。現代の戦争は、圧倒的な力を誇る攻撃する側と、市民の犠牲者に分けられる。そして戦場は私にとって、腐る体であり、焼けただれる匂いであり、体がぐちゃぐちゃに砕ける姿であり、(続く)

2014-07-27 14:47:56
広河隆一 @RyuichiHirokawa

切断された顔、壁に付着する子どもの髪の毛だった。兵士の死体はめったに出会わない。戦争と呼ばれるものの犠牲者ほとんど市民だった。 だから私は自衛隊に死者が出るからと言う理由で、集団的自衛権に反対するのではない。臆病な兵士は優秀な兵士である。動くものを見ると、(続く)

2014-07-27 14:48:52
広河隆一 @RyuichiHirokawa

確かめもしないですぐに引き金を引く兵士である。それ自衛隊が10人死ぬ現場では、自衛隊によって100人が殺されるだろう。そのうちの5人は敵の兵士であり、5人は友軍に殺される兵士であり、90人は市民なのだ。集団的自衛権は、確実に日本を殺戮者の国にする。(続く)

2014-07-27 14:50:01
広河隆一 @RyuichiHirokawa

その戦争は、メディアには絶対に流れない、惨憺たる死体が散乱する現場なのだ。 (終わり)

2014-07-27 14:51:21