いわゆる「邪馬台国」について(その4)

現状で少し整理してみた。 12/14分を追加しました。 2/8分、巴型銅器の考察追加しました。
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じねん @jinensai

邪馬台国の概念モデルを少し整理する。倭国連合の「代表」を選びマツリゴトを行う「永田町」は北部九州だ。「代表」は「倭国大乱」と特記されるほどの泥沼状態で選定が進まない。元老院(かつて「代表」を出した一目置かれた国々)は苦肉の策で東の辺境の王を「代表」に指名する。卑弥呼だ。(続

2014-08-19 07:49:56
じねん @jinensai

承)九州内には伊都国ぐらいしか後ろ楯はない(ゆえに有力国は狗奴国以外賛同)。しかし「宮将軍」並に権力基盤は弱い。本国ではないから伊都国あるいはその近くに「居候」状態である。(続

2014-08-19 08:00:19
じねん @jinensai

承)伊都国を吉野ヶ里とした場合、交通の要衝であり「一大率」が置かれる条件は満たしている。連合諸国から供出された寄せ集めの軍が「数」を頼りに睨みを効かせていたのかも知れない。しかし首班指名された「代表」=卑弥呼ではお飾りに過ぎない。(続

2014-08-19 12:32:55
じねん @jinensai

承)元来「倭は燕に属す」わけで、守旧派は公孫氏にむしろ遣使していたかも知れない。その公孫氏が景初2年8月に滅亡する。この機に卑弥呼を擁立した派閥は魏への遣使により打開を図る。景初3年6月目論みは成功し政権はようやく安定する。(続

2014-08-19 12:39:43
じねん @jinensai

承)過去の「代表」帥升に比べ権力基盤が弱い卑弥呼政権は、生口の数などは遥かに見劣りする遣使であったが魏使・張政の常駐、親魏倭王の金印や黄幢の下賜など魏の手厚い庇護を受け、「お飾り」と侮っていた大方の予想の斜め上を行き、絶大な信頼を勝ち取ることとなる。(続

2014-08-19 17:32:34
じねん @jinensai

承)その端緒となった「景初三年」は「列島民」の意識に深く強く刻まれる。それを「意匠」として採用した三角縁神獣鏡は副葬品の定番として(特に出身地である近畿を中心に)大流行することとなる。(続

2014-08-19 17:38:35
じねん @jinensai

承)「意匠」としての「景初三年」はデザインの延長上に「景初四年」を派生させる。(百枚以上出てるのに)三角縁神獣鏡を「魏から下賜された鏡」にするため「年賀状理論」や「特鋳だから魏から出土しない」といった「新本格」も真っ青な屁理屈を振り回すなど論外だ。コトは至ってシンプルである。(続

2014-08-19 18:26:27
じねん @jinensai

承)余談だが「日食」期間だけ「代理王」を立て、「凶兆」の責任を負わせ処刑する文明があったはずだ。倭国連合の「元老院」に知恵者が「代理王」を立てることを耳打ちしたのかも知れない。連合末席の地方議員待遇だった卑弥呼に白羽の矢が立ったのも「日食」を無難に遣り過ごすためかも知れない。(続

2014-08-19 18:52:37
じねん @jinensai

承)そのままでは「凶兆」の責任を負わされ処刑が待っているのなら、リスクを冒してでも公孫氏滅亡の余韻冷め遣らぬ物騒な帯方郡に遣使を送る気にもなるだろう。卑弥呼の死後、守旧派の巻き返しか狗奴国の台頭かで再び乱れた倭国連合が安定化の手本としたのは、この卑弥呼の一連の英断だったと見たい。

2014-08-19 19:14:45
じねん @jinensai

(大体既出の「謎」と「事象」への説明にはなったかな、概念モデル…。)

2014-08-19 19:17:21
じねん @jinensai

まあ、選挙の日でも思索に勤しむのである。銭湯モードは頭が最も解放・活性化する。今日のお題は「年已長大」。卑弥呼の年齢についての妄想。古田武彦さんなどの検証で「年已長大」が40歳で亡くなった曹丕にも使用されているのが分かっている。問題はそこからだ。(続

2014-12-14 21:16:58
じねん @jinensai

承)伊都国(吉野ヶ里遺跡)に常駐していた魏使・張政は直接会えたのだろうか? 男弟とは当然打ち合わせなどはしていたであろうが、もし会ってないで伝聞で「30歳~40歳」という情報を入手していても「年已長大」と表現するだろう。だが「二倍年暦」だとそれは「15歳~20歳」になる。(続

2014-12-14 21:24:00
じねん @jinensai

承)当然、倭人側は実年齢は知っている。これで発奮しない諸侯(倭国連合諸王)はいないのではないか? 権力など当然ながら無い。遣使の一桁の生口人数も納得だ。とにかく魏の庇護に賭けざるを得ず、しかもそれは見事に成功する。(続

2014-12-14 21:29:46
じねん @jinensai

承)つまり古来より、この列島を救ってきたのは少女と、彼女に「萌え」を感じた男どもだったかも知れないのだ…。(ああ…なんとゆう妄想。)

2014-12-14 21:33:12
じねん @jinensai

しっかし、同人誌の連載どこまで書こう。伊都国=吉野ヶ里遺跡までは書ききりたいけど、派生した問題まで出せるかだよなあ。吉野ヶ里遺跡で大量に発掘されてる「巴型銅器」のモチーフ突き止めつつあるんだけど。

2015-02-08 20:30:59
じねん @jinensai

「隋書」で夜は兄、昼は弟という二重統治機構に隋側から「義理無し」というイチャモンがつけられたのは、あの辺かじった方なら知ってるだろうけど、伊都国にはかつて魏使(張政)が常駐し、一大率も置かれてたわけで、実質的には行政府、すなわちアムステルダムに対するハーグだった。(続

2015-02-08 20:41:04
じねん @jinensai

承)つまり伝統的役割分担がケイゾクしていたとすると「犯人分かっちゃったんですけど」じゃないが、副王(弟)がいたのはハーグ即ち伊都国の方で、家紋的な彼を象徴するシンボルは「日」すなわち「太陽」ということになる。では吉野ヶ里遺跡から出土している「巴型銅器」の形状を見てみましょう。(続

2015-02-08 20:47:31
じねん @jinensai

承)サンタ帽状のとんがりが連続的に円の周りを一周してますね(各自画像検索!)。これを例えば幼稚園や小学校低学年の児童に先入観なしに見て貰いましょう。彼/彼女らは目を輝かせながら、「おひさまだあ~」とのたもうことでしょう。そう天照信仰です。伊都=委奴なら近畿天皇家は古の伊都国です。

2015-02-08 20:58:52
じねん @jinensai

とりあえずあげておこう。巴型銅器はこんな形ね。 pic.twitter.com/Lb5hvl8HhB

2015-02-09 06:10:32
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