#第二次世界大戦の泣ける話 その1
昭和20年10月になってアメリカ軍に投降したら、 「こんなに餓死寸前になって…… なんでもっと早く出てこなかったの?」 と米兵に云われた。 #第二次世界大戦の泣ける話
2014-07-03 22:09:35ニューギニア島に日本軍が上陸した当初、日本兵は現地人と、褌1枚マッチ一箱で鶏2羽を物々交換していた。米軍が上陸してくると、アメリカ軍は現地人と、日本兵捕虜1人でカヌー一杯分の缶詰を物々交換するモノだから、現地人は全部米軍についた。 #第二次世界大戦の泣ける話
2014-07-03 22:20:11昔、警備員のバイトをしてた頃、一緒に働いていたおっちゃんの親父が「隼鷹」に乗ってたらしひ。 その人の話「隼鷹は良い船だったよ。機関の調子が悪くてず~っと港にいたおかげで、出撃せずにすみ、生き残ることができた」 #第二次世界大戦の泣ける話
2014-07-11 20:33:15ソ連軍はある空挺部隊に「下は雪だから大丈夫」だとして『パラシュートなしで空挺降下』させる作戦を決行した事がある。もちろん部隊は壊滅。 #第二次世界大戦の泣ける話
2014-07-04 17:04:04東條英機も終戦半年でこの扱い #第二次世界大戦の泣ける話 pic.twitter.com/vLuCfUipiM
2014-07-05 22:47:14敷設艦(後に測量艦)「勝力」艦内。捕虜にした白人兵士(国籍不明)が石炭罐で水も与えられず働かされていたのを見かね自らの罰直と引き換えにコップ一杯の水を差し出す機関兵曹 #第二次世界大戦の泣ける話
2014-07-10 21:59:17満鉄勤務で特に華々しい戦争譚もなく、黙々と鉄道電話や信号の維持してたら日本負けてて「あれー?」と思いながら日本に帰ってきた祖父。#第二次世界大戦の泣ける話
2014-07-11 20:50:35近所のご老人の話。空母に配属され、4度乗り換えたらしい。沈む海戦の前には転属になり、危難を潜り抜け続けた模様。しかし終戦後に事業の失敗で自殺なさった。運を使い果たしたのだと噂された。 #第二次世界大戦の泣ける話
2014-07-11 21:03:05「嗚呼悲しや、一日15発野砲を撃つことが出来たなら敵を足止めできるというのに。米軍は一時間4000発我が陣に撃ち込んでくる」 #第二次世界大戦の泣ける話
2014-08-21 23:00:47大戦末期、塩の配給が滞るようになったので、政府は専売制を解除し、誰でも塩を作って良いことにした。 新潟の人たちが、早速、大きな鍋に海水を入れて煮詰めたのだが、ほんの少ししか塩はできなかった…… #第二次世界大戦の泣ける話
2014-08-05 19:55:23抜いた軍刀を山頂にいる八路軍に向け振りかざすと、中隊長は「突撃!」と叫び、敵陣向け駆け出した! すんませ~ん、ウチ、野砲中隊なんですけど…… 突撃していった中隊長が邪魔で射撃できないんですけど…… #第二次世界大戦の泣ける話
2014-08-24 21:39:21日本軍との近距離戦中、錯乱して大声を上げ始めた米兵は、味方のスコップで殴り殺された #第二次世界大戦の泣ける話 ペリリュー島の戦いは旬の話題かな
2014-08-24 22:04:21満州の偵察隊がソ連軍来襲近しと報告する、上層部は「できれば来月、いやできれば、来年初頭にならないかな〜」と自分の頭の中で勝手に来襲日時を定めていた #第二次世界大戦の泣ける話
2014-08-24 22:09:09和平仲介を打診していた日本の外交担当がソ連のモロトフに呼ばれた、回答を得られるかと思ったら宣戦を布告された #第二次世界大戦の泣ける話
2014-08-24 22:17:53本土決戦計画前に試算された昭和20年の対昭和18年比工業生産予測、 食用油 皮革 布製品 砂糖 すべて1%程度から皆無の間 #第二次世界大戦の泣ける話
2014-08-24 22:21:20日本軍の731部隊は被験者を「丸太」と呼んだとされる。遠く離れてペリリュー島の米軍従軍カメラマンは味方の遺体を「丸太」と呼んだ。 #第二次世界大戦の泣ける話
2014-08-24 23:51:18#第二次世界大戦の泣ける話 俺の曾祖父が瑞鶴の機体整備班だったんだけど、マリアナ沖海戦の後搭乗員達の霊が格納庫に現れて敬礼して消えたって曾祖父は言ってたなあ
2014-08-24 23:10:10〜開戦後米国での会議〜 議長「では開戦で供給に影響が出る戦略物資はマニラ麻だけということだな?」 担当者「はい、対日開戦で途絶が予想されます」 議長「分かった大統領にはそのように報告しよう。ところでこのマニラ麻は何に使うものなんだ?」 一同「???」 #第二次世界大戦の泣ける話
2014-08-24 23:23:17