天正十一年(1583)に有吉の嫡子が生まれて忠興が与太郎(後の長岡内膳置興道)って名前あげたよ! っていう記述見ていますごくぷるぷるしてる……
2014-08-28 21:14:53「信長公大に悦ひ勝頼の首ニ向ひ、汝か父信玄入道積悪に依て父子年を不経して滅亡せり、しかれ共我数ヶ年心労し、斯る小倅目ニ士卒を多く討せし事恥かし、汝父子常に上洛を望しと聞く、首と成て上洛し梟の木ニ掛るへしとて飛懸り、首を蹴らる、」(『綿考輯録』第二巻(巻九)廿頁)
2014-08-28 21:31:56「一十九日、信長公上ノ諏訪法旌旗を御覧被成、旗昇等改度者あらは望候へと被仰候、忠興君黒地ニ引両を筋違いニ仕度しと有り、信長公、与一郎ハ物数寄者と御褒美被成候、」(『綿考輯録』第二巻(巻九)廿頁) かわいがられているなあという感じがしますね
2014-08-28 21:49:41たぶん忠興公は細川奥州家に養子に入っているので、「黒字ニ引両」は藤孝の「筋」なので自分とは違う、と言ってるんじゃないかなーと思うんですがどうですか
2014-08-28 21:51:11「明智殿差図ニ与一郎衆ハこなたへと仰候を、有吉・米田同心せす、然る処ニ城兵きひしく鉄炮を放ち、光秀の勢乱れて進ミ得す、忠興君異故なく御乗入被成候、(段下)後ニ此事を被仰て、日向守差図ニ随ひたらハ、散々悪かるへきに、若き者共なれとも能心得たりとの御咄なり、」(『綿考輯録』二巻拾頁)
2014-08-28 22:02:48ちょいちょい忠興さまは光秀のこと話すけど、褒めたかと思えばおもしろいくらいたたき落とすよね……これ久秀攻めてるときなんだけどこの有吉と米田は親父たちのほうかな
2014-08-28 22:03:59うーんどっちかわからんかった……忠興公の綿考輯録には「有吉・米田」ってあるのに藤孝のほうは「米田・有吉」ってあるのがちょっとおもしろかった。有吉は正直四郎衛門って書かれてもそれ嫡子全員やから!!!!!
2014-08-28 22:10:14昼間言っていたやつこれです「丹後国ハ親に不遣、汝ニ遣ると仰有けれハ、難有御意之趣失念仕間敷とて御落涙之体を御覧被成、額を押動し、せかれめかほへをるハ、誠ニ恩を忘間敷者と被仰候也、」(『綿考輯録』第二巻(巻九)十八頁)
2014-08-28 22:20:46この「数寄」というの、今は風流な人みたいな意味がありますが、言い方だけは「ものずきもの」になるので、そのまま「物好きな人」っていう解釈でいいんかな。それとも「お前趣味いいね!」っていう意味なんかな。「好き」っていう表現はとても最近なので、前者としての意味で字だけが変わったんかなと
2014-08-28 21:52:40