籔下彰治朗さんの講演録
ジャーナリストを目指す方々へ①)僕が朝日新聞に入社した翌秋、東京本社で「2年生研修」がありました。いまとなっては何一つ覚えちゃいない偉い方々のお話しの中で、唯一、衝撃的な講演でした。社会部の編集委員を長く務め、この直後に逝去された籔下彰治朗さんという方の講演です。
2014-08-28 23:49:56ジャーナリストを目指す方々へ②)僕のフォロワーさんは、「どす恋」が9割であることは承知の上で、それでも、ごく一部かもしれないジャーナリストを目指す方に、ぜひ読んで頂きたくて、以下、連投します。籔下彰治朗さんの講演録です。
2014-08-28 23:50:36③)2年生研修で聞いた話が衝撃的で、どうにかして、もう一度同じ話を聞きたいと思い続けていたら、しばらくして、講演録を収録した社内の印刷物が出ました。それをコピーして、大事に大事に、20年、持ち続けています。その講演をここに再録したいと思います。以下、講演録です。
2014-08-28 23:52:19④)今年4月まで現役として朝日で働いておりました。入社は58年ですから、もうみなさんから見ると、シーラカンスみたいなもんです、まさに。どうしてそんな化石がみなさんの前に呼び出されたかという点を考えてみました。
2014-08-28 23:53:12⑤)私は編集委員を長い間やっておりまして、全国を回らせていただきました。おそらくみなさんの支局のほとんどを回ったと思います。飲んべえだったもんですから、よく支局の方々と飲み食いをやりました。その中で支局員の方々の意見をいろいろ聞いた。
2014-08-28 23:53:49⑥)30年、年次が違っていても悩みは同じなんだなということをしみじみ思いました。つまり、私が入社のころ持っていた悩み、あるいは希望というのと、みなさんがいま抱いていらっしゃる希望や悩みがほとんど変わらない。みんな、つらいのをくぐって来ておられるんだ。そのことを思いました。
2014-08-28 23:55:06⑦)支局員の方々の悩みをいっぱい聞いてきたということで、私が起用されたんだと思います。大体、私ごときがしゃべらなくても朝日のOBの方でしたら、私がいまからしゃべることと同じことを言われると思います。最初にそれだけお断りしまして、話を始めることにします。聞いてください。
2014-08-28 23:55:47⑧)みなさんは支局の柱です。おそらくそうです。どこへ行っても入社2年目というのは支局の最も重要な書き手です。知識がかたまってくる、ノウハウは覚える、体力はあるというんですから、職制にとってこれぐらい都合のいい人はいない。
2014-08-28 23:56:16⑨)だから、本人の好むと好まざるとにかかわらず、支局の柱とされるのだと思います。事実、2年目といいますと、何でも書けるような気にになる。一応の記事はこなせる。こなせるという自信がついてくる。これからおれはやるぞという意識に駆られる。
2014-08-28 23:56:54⑩)半面、この時期になると、これでいいんだろうかという不安が沸いてくる。私もそうでした。これでいいのかな、新聞記者はこんなもんでいいのかな、というマンネリへの不安というべきでしょうかね。それが沸いてくる。
2014-08-28 23:57:24⑪)もうひとつは、他の分野へ進んだ同級生や後輩なんかの姿がやたらにキラキラ光って見えてうらやましくなる。それから同時に、その裏返しの孤立感、自分が孤立しているような気になる。仲間は一生懸命、大学に残って研究しておるのに、オレはこんなところえコッテ牛のせり市の記事を書いている。
2014-08-28 23:58:06⑬)あなた方はいま、自分は見たままを書けるという自信があると思います。入社以来、徹底して見たままを書けばいい、素直に書けばいいとの教育をされていると思います。みなさんも見たままを一応書けるという意識をお持ちだと思います。しかし、本当にそうなのだろうか。
2014-08-28 23:59:12⑮)1959年9月26日。忘れもしません。このときに伊勢湾台風という超弩級の台風が東海地方を襲いました。私は当時、津支局におりました。5千人も死んでいます。発生直後に支局から現地に入りました。
2014-08-29 00:00:07⑯)見渡す限り死体です。泥海の中に死体がプカプカ浮いているんです。何百という死体が腐敗して、パンパンにふくれあがって、皮膚が紫色や青色に変色して、しかもテラテラ光っているというものすごい光景でした。真っ昼間から夜にかけて、切れ残った堤防の上で何十カ所と火が燃えている。
2014-08-29 00:00:31⑰)廃材で肉親の死体を焼いているわけです。度肝を抜かれました。何も書けやしません。立ちすくみました。それでも書かなきゃいかん。がんがんデスクから原稿を送れと言ってくる。
2014-08-29 00:01:00⑱)それで私はどうやったかというと、見たままを書くつもりで、一生懸命、見たままを書いたんです。死体が浮いている。牛や馬も膨れあがって浮いている。水面下に家の土台の跡やらガッチャンポンプの影が見える。そんなような話。
2014-08-29 00:01:31⑳)ひたすら私は見たままを書こうと思った。一生懸命、見たままを書くことが真実の報道だと思っていました。そして毎日毎日、その泥海を見て泣きながら――ほんとうに恥ずかしいですが、涙で文字が書けないんです。
2014-08-29 00:02:2622)これだけの大災害です。土地を造成した建設省や農水省も、県などの自治体も、それから企業も、鎌倉以来の大災害である、不可抗力の天災であると大宣伝しました。私も被害のあまりの大きさでたまげちゃったから、これはもう不可抗力だと、そう思いました。そんな調子でいくつも原稿を書きました。
2014-08-29 00:03:1923)それから十数日たったんですね。当時、東京社会部で最も優秀な書き手と言われて、最後は編集委員でおやめになった疋田桂一郎さんという方がいらっしゃいます。この疋田桂一郎さんが当時、東京社会部の遊軍記者をしておられて、ルポを書くために現場にやって来られました。
2014-08-29 00:03:4624)もう、災害から二週間もたっているんですよ。どんな取材をなさるのだろうと思って、私たちは見ていた。音にきく東京社会部の書き手だということで、ほんとうにかたずを飲んで見ていた。
2014-08-29 00:04:1925)われわれは毎日、泥水につかって取材しているんです。水にぬらさないように頭に無線機を乗せて。原稿用紙を乗せて。ところが、あの人はボートに乗ってぐるっと被災地を回って来られただけです。と私には見えた。ハラが立ちましてね。東京なんていうのは結構なもんだな、と。
2014-08-29 00:05:07