茂木健一郎(@kenichiromogi)さんの連続ツイート第1330回「名前の紙風船から自由な場所で」
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人間は、名前をつけることで、世界を分けるし、認識できる。一方で、名前をつけることで、それにとらわれたり、安心したりしてしまうこともあるなと思う。最近は、できるだけ、名前をつけないようにしたいな、という気持ちが強い。名前をつけることで、とらわれてしまうことを恐れるのである。
2014-09-23 07:18:17名前をつけると、他人と共有することができる。体験が、原始的なイメージのままでは、それはあくまでも秘私的なものだが、名前をつけることで、伝達したり、交換したり、記録することができる。名前は便利なのだけれども、そのことで、内的なイメージの自由さが失われる。
2014-09-23 07:19:23特に、インターネットの情報化社会では、名前は一人歩きし、拡散し、ときには一人ひとりの生身の人間を押しつぶして、命をうばうことすらある。対象に名前をつけると、とりあえず安心だし、何千何万の人々にも「拡散」できるが、生身の現象は、必ず、名前からはみ出しているものだと思う。
2014-09-23 07:20:35だから、インターネット上で、ある名前が拡散しているときには、ほんとうは、警戒心を持った方がいい。ほんとうに、その名前は、生の実態を過不足なく表しているのか(たいていの場合、そうではない!)。その名前は、誰かに利用されていないか。思考停止していないか。惑わされていないか。
2014-09-23 07:21:43名前よりも、ためらいとか、とまどいの方が、信用できることがある。なによりも、今、ここに、自分が生きているという実感が、名前に還元できないことを確認すれば、それが何よりの出発点になるし、名前に惑わされて生きるよりも、よほど生の充実を感じることができるようになる。
2014-09-23 07:22:38名前は、爆弾のように、攻撃するために使われることがある。しかも、時間や空間の距離をこえて、降り注いでいくのだ。名前は、真相を覆い隠すためにつかわれることがある。名前にとらわれて、命を見失っている人の群れがいる。名前をロケット発射することで、満足している人たちがいる。
2014-09-23 07:23:49生きるということは、時には、ありとあらゆる名前の紙風船から自由な場所で、体験そのものと向き合うことでなければいけないと思う。そのために、運動がある。運動は、必ず、名前を逸脱する。名前は、時に、反生命的である。情報はとまっている。それに生命を与えるのは運動だけである。
2014-09-23 07:25:21