フィクションの消費と動員、あるいは「『艦これ』を契機に歴史を学ぶ」ことについて
Gestellとしてのフィクション
艦これというのはその現れにおいても本質においてもGe-stell(総駆り立て体制)に他ならないのだけれど、かのフライブルク大学総長は総駆り立て体制には勝てなかったよということで批判されてきた。しかし今のニポーンの知識人は、総駆り立て体制に初めから腹をみせている始末なわけであって。
2014-10-05 22:06:31Ge-stellの「総駆り立て体制」という訳は名訳だと思うのだけれど、良くも悪くもある種の傾向を伴った訳で、それが様々なstellen(darstellen,vorstellen,herstellen等々)の連関において成立する語だということが忘れがちになるのはよくない。
2014-10-05 22:19:16あらゆる歴史フィクションが艦コレと同じ強度で政治的問題となりうるかといえばそんなことはなく、現在の日本においてアジア太平洋戦争は過ぎ去ろうとしない過去であって、それを評価することによって生じる尺度がそのまま目下の政治的問題への評価をも照射しているという固有性を考慮せねばならない。
2014-10-06 04:42:58世界を「消費」する自覚について
ある危うさをもったメディアを消費するときに、現実とフィクションを区別する、というのはたぶん本質ではない。現実だろうがフィクションだろうが、我々はソーシャルメディア等の技術を通してあらかじめ消費されるべく配列された世界を消費するよう動員されている。
2014-10-06 05:23:14じゃあそういった世界を消費するな、というのは我々現代人として出来上がった身体には無理な相談で、つまりそれをつきつめると荒野の中で神の声だけを聴いて暮らすしかないのだからそれは却下と。であるならば、せめて政治性や差別性は自覚し、完全に動員されてしまうことには主体的に抗わないと。
2014-10-06 05:28:52でもそうやって技術の支配に対して主体的に抵抗できる人間は少数である、というのが近代における教訓なのだから、ひとりひとりが気づき抵抗するだけでは不十分で、全体としてメディアがもつ政治性や差別性に巻き込まれることを防ぐ方法を考える、というのが消費する者としての社会的責任でしょう。
2014-10-06 05:42:03たとえば別に艦これを直接批判しなくても、戦争における艦船の「悲劇」を擬人化してロマン主義的に消費することをツイッターに堂々と書いちゃうことはまずい、ということは様々な手段で訴えることはできるはずで。
2014-10-06 05:42:47「『艦これ』を契機に歴史を学ぶ」ことについて
艦これ学ぶきっかけ論については、理屈としてはありえなくはないけど、実際それがいい方向にむかうことはまずないので、それを理由とする擁護/放置には注意が必要です。
2014-10-07 05:56:44艦これ学ぶきっかけ論というのは、私という人格が、艦これという機会を利用して学びを行う、というものですですが、消費されるべく与えられているコンテンツというのは、単なる機会ではなく、むしろ私の人格それ自体を形成するものなのです。だから、艦これを通して学んだ歴史は艦これでしかない。
2014-10-07 06:00:21艦これがもし歴史を学ぶきっかけになるとすれば、艦これを消費する私という人格そのものをクリティークすることによって、歴史を学ぶ私という人格から切り離すことを前提とします。しかし、それに気づくことは「フィクションと現実の区別」なるものよりもはるかに困難なことであるのです。
2014-10-07 06:03:42したがって、歴史家の皆様におかれましては、歴史学の知見を普及させることについて、艦これなどの萌えミリを歴史を学ぶきっかけとして評価することはせず、地道に正攻法で啓発を続けていかれたほうが実ははやいと思われます。
2014-10-07 06:06:2421世紀の社会において、文化を「個人的に」消費することは不可能です。技術と経済の双極性がそれを許さない。われわれが何かを消費するとき、われわれは常に動員の対象です。艦これを単なるエンターテイメントとして消費しているつもりのあなたは、あなたが思っている以上に艦これから自由ではない。
2014-10-07 06:20:50