エデッサの戦いの後にスーサ・カルーン川に建造された「Band-e Kaisar(皇帝のダム)」、この『皇帝』とは時のペルシア皇帝シャープールではなく、ローマ皇帝ウァレリアヌスの名に因んだものと言われています en.wikipedia.org/wiki/Band-e_Ka…
2015-04-01 09:57:22ササン朝ペルシアではどうだったかわかりませんがアケメネス朝の頃は髭は権威の象徴だったそうで、レリーフ等でシャープール1世が髭を蓄えているのは納得ですが、こうなると逆に捕虜という立場であるウァレリアヌスはつるつるに髭を剃られていたのかもしれません
2015-04-01 11:36:26聖職者でない限りは飲酒も許されていたようですね… ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E… 時代が遡りますがリュトンという杯も残っていたようですし二人でワインぐらいは嗜んだのかも…? blog.goo.ne.jp/harunakamura/e…
2015-04-01 10:58:08@itsumonoTL 英語wiki都合のいいとこだけかいつまんだシャウァレまとめ:捕虜にしたウァレリアヌスとその軍数万を好待遇で迎え入れ新しい都およびダム建設にあたらせ、ウァレさん死亡の際は遺体は埋葬せず、おじさんはそのローマ軍捕虜居住地とされた地で病死
2015-03-31 21:07:00@itsumonoTL 当初シシュタールに設置されていたダムはきちんと作動しておらず、ローマの技術の導入によってその機能を発揮した みたいなことが書いてあって アーーー ってなってる これはおじさん頭上がらないわ…少なくとも客人扱いになるわ…
2015-03-31 10:50:32@itsumonoTL en.wikipedia.org/wiki/Valerian_… 煮えたぎった金を飲まされたとか鞭打ちで殺されたとか書いてあるけど結局決定的な証拠は残ってないまま議論だけされてるようなので好きにしていいってこと
2015-03-31 16:18:19@itsumonoTL ウァレリアヌスの皮(遺体?)は後にローマに返還され葬儀・埋葬されたとの一説もある これについてはおじさんやっぱりローマ式の「埋葬」はしなかったっていう都合のいい解釈ができますねありがとう
2015-03-31 16:20:25@itsumonoTL さっきの後半にシャープールはウァレリアヌスとその兵をビシャープール及びジュンディーシャープールへ住まわせ良い状況で生活させて云々書いてあった
2015-03-31 16:25:43@itsumonoTL これ… en.wikipedia.org/wiki/Band-e_Ka… 英語で調べ始めたら一気にシャウァレに有利な情報が流れ込んできて怖い…
2015-03-27 15:25:32@itsumonoTL 例の皇帝のダム、 「またの名をBridge of Valerian or Shadirwan~」て書いてあるんだけどこれなに 「ヴァレリアヌス(およびShadirwan(?))の橋」てこと? は?
2015-03-27 15:23:12@itsumonoTL Shadirwanは違うわ これだけで皇帝のダムの一つの別の名前だ えっじゃあまじで「ウァレリアヌスの橋」なの? え?
2015-03-27 15:24:42@itsumonoTL en.wikipedia.org/wiki/Shapur_I おじさんビシャープールで病気で死んでる…なんでクテシフォンじゃないの…?
2015-03-31 15:45:16@itsumonoTL en.wikipedia.org/wiki/Bishapur 途中で読むのをやめてしまったんですがおじさんが建てた(?)新しい都市なだけであって首都は相変わらずクテシフォンだったようなんですがおじさんなんでビシャープールで死んだ?
2015-03-31 16:03:50@itsumonoTL 馬での旅に関して detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_de… #知恵袋_ なるほどなぁ
2015-03-26 21:06:47「皇帝の馬蹄に伏しているのはローマ皇帝ゴルティアヌス、馬前に跪くのはフィリプス、」と説明があるようにおじさんが背中とお膝を許しているのはウァレさんだけです何事でしょうかこれは(震え声)
2015-03-25 23:17:43