佐藤正美Tweet_20141101_15

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佐藤正美 @satou_masami

我々がモデルについて語りはじめるや否や直ちに第一の問題が出て来る――即ち、我々は何をモデル化するかという問題である。これに対して我々が為し得る唯一の答えは、管理するに相応(ふさわ)しい対象をモデル化するという事である。

2014-11-14 00:46:52
佐藤正美 @satou_masami

もしモデルが我々を「事実」に導いて行かなかったならば――即ち、モデルにおいて構文論上で構成された記号列を直ちに「事実」に導いて行く事ができなかったならば――、そのモデルは真のモデルではない。

2014-11-14 00:50:17
佐藤正美 @satou_masami

記号(構文論)と意味(意味論)との応和は、正しいモデルのもつ条件である事、そして「論理」はそのために崩される様な事があってはならないという事である。「論理」がその本来の規約を犠牲にして「意味」を模倣する様な事があるにしても、そのために正確さが増す様な事は決してあるものではない。

2014-11-14 00:55:17
佐藤正美 @satou_masami

記号列の関係――あまりに平凡だ、くだらない、こんなのは単純な論理の使用という事で、モデルとよぶに値しない。モデルは、もっと高尚な抽象化の産物だと理論家は言うかもしれないが、事業で伝達されている「情報(取引の記録)」の様な平凡な記録の構造は、いつもそんなものである。

2014-11-14 01:00:35
佐藤正美 @satou_masami

「論理」の些細な演算に退屈しない事ができなければ、モデル制作には決して手を出すな。ほとんど自明な公理(無証明命題、あるいは仮定)でさえも、「論理」は証明を求めるものであるからには。意味論的な恒真は常に証明可能であり、その逆も真である――それが完全性という事である。

2014-11-14 01:13:31
佐藤正美 @satou_masami

多くのプログラマは、モデル制作を煩わしく面倒な手続きだと云って誹謗するが、それは不当だ。そんな事を言うなら、そもそもプログラムそれ自体がモデルに劣らず煩わしい論理の構成物なのだ。コンピュータ用の形式的構成物として、モデルはプログラムの一つの入力項にすぎないのである。

2014-11-14 01:19:39
佐藤正美 @satou_masami

モデルの起点には、常に素直な観察がなければならない。そして、割り切れない豊富な「現実」を形式化する技術がなければならない。モデルとは、一貫して(complete)無矛盾な構成を意識して作るものだ。モデルは、現実的事態の代置たる記号列を論理に従って素直に辿る分析の産物なのである。

2014-11-14 01:26:01