【三国志】費禕死後の益州刺史は誰か?

延熙十六年(253年)に費禕が死んだ後、蜀漢では益州刺史の名が見えない。 しかし、華陽国志などから存在していたことは示されている。 一体、その益州刺史は誰なのか、というのを考えた。
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Jominian @Jominian

費禕死後の益州刺史は、陳寿も当然知っていたはず。そして、その職の蜀漢における重要性も当然知っていた。にもかかわらず、蜀書に記載しなかったのは、記載したくない理由があったからだろう。それが華陽国志にある、州と朝廷との断絶にあるように思える。

2014-11-24 16:27:00
Jominian @Jominian

陳寿が費禕死後の益州刺史を記さなかったのは、その時期にその人が益州刺史であることが、その人にとって不名誉であり、且つ陳寿がそれを隠したかったからだろう。記録に遺漏があったとしても、当然陳寿が記憶していて然るべき内容だからだ。二十歳を過ぎて官職に就いていて、益州刺史を知らぬはずない

2014-11-24 17:17:57
Jominian @Jominian

陳寿が不名誉を隠したがった益州刺史候補と言うと、姜維や陳祗が挙げられるが、陳祗死後こそ州と朝廷の断絶が甚だしくなったので、陳祗の就任を隠すのはさほど名誉を守ることにならない。姜維については、「姜維を益州刺史に」という諸葛瞻らの上表を無視しなければならず、これも難しい

2014-11-24 17:21:36

上奏の出典は董厥伝に注釈された異同記
原文は
「瞻、厥等以維好戦無功、国内疲弊、宜表後主、召還為益州刺史、奪其兵権力;蜀長老猶有瞻表以閻宇代維故事」


Jominian @Jominian

姜維や陳祗を除くと、費禕死後に政権中枢に居たのは尚書僕射董厥や侍中諸葛瞻辺り。彼らは後に権力を握るので、当時から益州刺史でもおかしくはない。しかし、陳祗の権力が絶大だった時代に、下克上ができるはずもなく、また、「黄皓を抑えられなかった」と評される彼らの不名誉を陳寿が隠す必要もない

2014-11-24 17:27:05
Jominian @Jominian

むしろ、陳祗時代は陳祗で、陳祗死後は姜維として、諸葛瞻らの上表とも矛盾しない解釈を考えた方がすっきりするかもしれないな

2014-11-24 17:31:09
Jominian @Jominian

諸葛亮は留府長史を置いていたとはいえ、益州牧を兼任しながら長く外地に居た。蒋琬も四年間とは言え、益州刺史を領しながら外地に居た。費禕も二年半だが同様。姜維が毎年遠征していたことは、益州刺史を領することを否定しない。しかし、やはり「姜維を益州刺史に」という上奏が引っかかる

2014-11-24 18:10:37
Jominian @Jominian

「姜維を益州刺史に」という上表は、孫盛の異同記が出典であり、また、蜀の長老も同じようなことを言っていたと。この蜀の長老というのは、孫盛が桓温と共に益州入りした頃の長老で、上奏のあったとされる時代の90年後だ。上奏があったことが分かっても、その正確な時期や目的も失われていただろう

2014-11-24 18:40:10
Jominian @Jominian

諸葛瞻の上表は、その時期や目的は不明だ。裴松之が董厥らが権力を握った景耀四年頃の注釈としてしまったために、我々も勘違いしているだけだろう。実際には、景耀元年、陳祗の死んだ直後のことであろうと思われる。

2014-11-24 18:42:23
Jominian @Jominian

孫盛が記した、姜維を益州刺史にしようという上奏と、蜀の長老の上奏は、よく読むと別の話である。「閻宇を姜維に代えようという上奏もあった」ということである。閻宇を姜維に代えようという上奏は、姜維伝から考えると、沓中に留まっていた頃であるが、益州刺史にしようという上奏は時期は不明である

2014-11-24 19:10:37
Jominian @Jominian

そもそも、沓中に留まった頃の姜維は政治的に追い詰められており、その姜維に蜀漢の政治のもう一方の中心である益州刺史を与えようというのは、その失脚を願う黄皓らの意に沿わない。諸葛瞻らが益州刺史を領しながら、姜維を失脚させる手を模索するはずである。

2014-11-24 19:15:24
Jominian @Jominian

諸葛瞻の上表は、恐らく景耀元年のものである。延熙二十年の北伐は、姜維に魏の脅威が増大していくことを理解させるのに十分であり、それを挫くため、姜維としては継続して対魏攻勢を行いたかったはずである。それが陳祗の死で頓挫し、益州刺史として成都に留まらせることになったのだろう。

2014-11-24 19:19:25
Jominian @Jominian

恐らく、姜維を益州刺史として召還するようにという諸葛瞻の上表は聞き入れられたはずだ。諸葛瞻としても、姜維が益州刺史として政務に専念してくれれば、厄介な北伐が止む上、表向きは陳祗が死んだので改めて蜀の政治を見るようにという話なので、聞き入れられやすい

2014-11-24 19:25:29
Jominian @Jominian

姜維を益州刺史にということと、姜維を廃して閻宇を立てようということは、姜維に対する苛烈さという点で雲泥の差があり、同時期とするよりも、むしろ段階的に緊張が高まった結果とした方が、より自然である。

2014-11-24 19:27:05
Jominian @Jominian

費禕死後の益州刺史は、陳祗→姜維という順当なラインで継承されたと見るのが、三国志とも、他の資料とも合致する解釈であろう。

2014-11-24 19:28:33
Jominian @Jominian

姜維が益州刺史だったとして、なぜ陳寿はその記述を三国志から省いたのか? それは、姜維が大将軍録尚書事領益州刺史である場合、蜀の宰相としては完全な肩書であり、黄皓を制御できなかった責任が、より重く姜維にのしかかり、ただでさえ亡国の相とされているところを、更に貶められてしまうからだ

2014-11-24 19:32:09
Jominian @Jominian

姜維が益州刺史である場合、華陽国志に記載されている益州と朝職の断絶についても、姜維に責任が及ぶ。しかも、姜維は最終的に益州刺史としての職務を半ば放棄して沓中で屯田してしまっているので、より批判は強まってしまう。陳寿はこれを避けたかった

2014-11-24 19:33:53

蜀における州職と朝廷との断絶は、華陽国志後賢志にある。
司馬勝之及び常勗の項目を参照

なお、同じく華陽国志を見ると、この時期に尚書から郡県へと異動する人事が散見される。


Jominian @Jominian

三国志における陳寿の姜維に対する姿勢は、姜維に対する大きな期待と、結局はそれが叶えられなかったことへの落胆があるように見える。しかし、姜維の真実を知る陳寿は、その名誉が必要以上に貶められることのないよう、大きな配慮をして三国志を著した。真の姜維ファンと言えよう。

2014-11-24 19:40:47