君がセピア色になる前に

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切腹の人. @HarakirimanEX

そもそも、一年間の約束だった。 「産休の代理すか」 「教育実習の受け入れ先として御世話になってる学校でね。遠すぎて母校へ行けない地方出身の学生達が頼み込む場所なんだよ」  大学の学務長を伴った教授が学生の部屋を訪ねて来たのは五月上旬だった。 #君がセピア色になる前に

2014-11-25 20:39:15
切腹の人. @HarakirimanEX

他の学生が実験やレポートに勤しむ中、ただひとり荷物を片付けてダンボールに突っ込んでいた青年は作業を一時止めて、ここ数週間いろいろと世話になった学務帳と教授に向き合った。 「産休代理で入った方がね、一か月たたない内におめでたが発覚して」 「あー」 #君がセピア色になる前に

2014-11-25 20:43:05
切腹の人. @HarakirimanEX

学務長のなんとも複雑な説明と教授の渋面が、青年におおよその事情を悟らせていた。  そういえば修士を終えて職を探せなかった女子がひとり教職を紹介されたと、年度末の送別会で聞いた事がある。青年はその頃、休学の手続き中だったが強引に酒の席に呼ばれていた。 #君がセピア色になる前に

2014-11-25 20:45:53
切腹の人. @HarakirimanEX

「できちゃったんですか」 「できたものは仕方ないだろう」  青年の呟きに、教授が肩を落とす。  幸運だったのは父親が即座に特定され、社会的な責任を果たす覚悟と能力が十分に備わっていた事だ。事情説明の場において身重の女子の代わりに土下座したという。 #君がセピア色になる前に

2014-11-25 20:48:46
切腹の人. @HarakirimanEX

「だが一度は紹介した立場としても、その代わりとなる教師を早急に手配したいという思いがあってね」 「まあ、そうっすね」 「藤原君。君の事情は理解しているつもりだが、その上で、恥を承知で頼む」  藤原と呼ばれた青年に教授は頭を下げた。学務長も倣う。 #君がセピア色になる前に

2014-11-25 20:51:25
切腹の人. @HarakirimanEX

「藤原君。君は教員免許を持っていると聞いた。力を貸してほしい」 「先生、おれ学校やめるつもりなんですよ」 「知っている」 「家族の顔を立てて休学扱いにしてますけど、戻ってくる可能性なんてこれっぽっちもなくて」 「それも知っている」 #君がセピア色になる前に

2014-11-25 20:53:51
切腹の人. @HarakirimanEX

「……やめたところで引きこもるしか能のないドロップアウト組なんですけど、先方それでも良いっていうんですか?」  藤原の言葉に、周囲で作業していた学生たちが視線を向ける。  博士課程に入った直後にドロップアウトする学生は決して少なくない。 #君がセピア色になる前に

2014-11-25 20:56:32
切腹の人. @HarakirimanEX

「失礼ながら君の成績証明書と修論を先方には届けてある」  学務長が答える。  成績としては平凡。扱う研究テーマも、やはり平凡。本人の意思というよりも学者一家に生まれたが故に「かくあるべし」と育てられ、不幸にもここまで来てしまった凡人が彼だった。 #君がセピア色になる前に

2014-11-25 20:58:51
切腹の人. @HarakirimanEX

なまじっか努力と才能が半端に備わっていたため、彼は挫折する事さえ許されずに生きてきた。休学は彼が初めて見せた意思表示であり、親族への反抗だった。 「……他にいなかったんすか」 「他にいたとしても、私は君を推す」  頭を下げたまま教授が強く答える。 #君がセピア色になる前に

2014-11-25 21:02:13
切腹の人. @HarakirimanEX

教授には世話になった。  頑迷な父と、エリートしか知らない母親の説得に尽力してくれたのは、この人だ。教授がいなければ自分は休学する前に自死を選んでいただろう。 「一年間すね」 「ああ。それで構わない」  藤原の言葉に、教授は顔を上げる。 #君がセピア色になる前に

2014-11-25 21:06:41
切腹の人. @HarakirimanEX

「スーツと白衣、用意しなきゃまずいっすね」 「その辺は私たちがある程度援助するよ。住む場所の確保もね」 「よろしくお願いします。多分すぐ授業を始めないとマズイんですよね」 「ああ、切迫流産しかけたそうでね。授業中に何度か貧血で倒れかけたとか」 #君がセピア色になる前に

2014-11-25 21:09:58
切腹の人. @HarakirimanEX

それを早くいってくださいよと藤原は慌て、先刻より適当に荷片付けを始める。 「藤原さん、片付けとか俺らやっておきますから」  声をかけたのは後輩の一人だ。 「下宿でまとめてた荷物も、実家じゃなくて仕事先のアパートに届けるように業者に連絡するよ」 #君がセピア色になる前に

2014-11-25 21:12:23
切腹の人. @HarakirimanEX

「急いだ方がいいんでしょう、先生」 「ああ。できれば今日中に先方の学校で挨拶してほしいくらいで」 「うへえ」  どんだけ切羽詰ってるんだよと声を上げたのはまた別の学生だ。 「これ、おれが断ったらどうなってたんすか」 「……講師たちが持ち回りで」 #君がセピア色になる前に

2014-11-25 21:15:09
切腹の人. @HarakirimanEX

「いかんでしょ、それは。わかりました、おれ産休の代理の代理、頑張ります」  是も非もない。  教育実習に行ったのは三年も前の話だし高校の教科書内容など半分抜けかかっている。だがそんな悠長なことを言える状況ではないようだ。藤原は両の頬を叩いた。 #君がセピア色になる前に

2014-11-25 21:17:48
切腹の人. @HarakirimanEX

「行ってくれるか、藤原君」 「ええ。どうせ近場でしょうし、たぶん県立北とか?」 「いや、赴任先は公立じゃなくて私立なんだ」  学務長の台詞に藤原と周囲の学生が固まる。  彼らの知る限りにおいて周辺に私立校は一つしかない。 「……小倉、女子?」 #君がセピア色になる前に

2014-11-25 21:22:43
切腹の人. @HarakirimanEX

「うん」 「正門から校舎まで宮殿みたいな噴水付の庭になってるって噂の?」 「そこ」 「……めちゃめちゃ格式ある女子高じゃないっすか」 「大丈夫、高いのは格式だけだから」  そういう問題じゃないだろ。  藤原と周囲の学生は心中でツッコミを入れた。 #君がセピア色になる前に

2014-11-25 21:25:31
切腹の人. @HarakirimanEX

「一年間って約束だったんだけど、ナー」  舞い散る桜を眺めながら、藤原は三年前の事を思い出していた。  産休の代理の代理として連れ込まれた女子高で、彼はいきなり一年生の担任を受け持つことになってしまった。  生徒も一年生なら教師も一年生だ。 #君がセピア色になる前に

2014-11-25 21:33:57
切腹の人. @HarakirimanEX

「なんで教師陣にベビーブームが到来するんだよ」 「男の先生が少なかったので、安心して産休に入れなかったんですよねえ」  理科準備室で番茶を湯呑に注ぎながらのほほんと返すのは、もうじき定年を迎える男性の先輩教師だ。 「私としても大助かりでした」 #君がセピア色になる前に

2014-11-25 21:36:44
切腹の人. @HarakirimanEX

「山部先生なに物騒なこと言うんですか」 「ははは。藤原先生が来てくれたおかげで、私も安心して定年を迎えられるというものです」 「よしてくださいよ。おれ、あくまで産休の代理すよ。イケメンで優秀な新任教師が来たら放り出される立場なんすからね」 #君がセピア色になる前に

2014-11-25 21:38:48
切腹の人. @HarakirimanEX

「そうでしたっけ?」  そうなんですよ。一応。  山部教諭のとぼけた顔に、藤原は肩を落とした。  産休代理の臨時採用に違いはない。ただ、連続で教師におめでたが出る。場合によっては育児休暇をとる。申し合せたように、次年次次年と藤原の雇用継続が決まる。 #君がセピア色になる前に

2014-11-25 21:42:19
切腹の人. @HarakirimanEX

「では大学に戻られるのですか?」 「あ、大学は去年きっぱり辞めてきました」  窓の外から視線を外し、何でもないように藤原は答える。 「教授が別の大学に移ったんですよ。研究室の皆も一緒についていきましたし、あそこにおれの場所はもうないんです」 #君がセピア色になる前に

2014-11-25 21:45:12
切腹の人. @HarakirimanEX

「それもまた寂しい話ですね」 「ここを紹介してもらっただけでも、教授には超感謝ですよ。お中元とお歳暮は欠かせないすね」  さて、そろそろ時間かと藤原は白衣を脱ぎ、少しくたびれたツイードのジャケットに袖を通した。教師と言えばこれであろう衣装だ。 #君がセピア色になる前に

2014-11-25 21:49:33
切腹の人. @HarakirimanEX

「それじゃ教室行ってきます」 「頑張ってきてください、藤原先生」  一年生の担任である山部教諭は既にHRを終えており、見送る立場だった。  藤原は三月とは思えない陽気の中、平成の時代においてはもはや骨董と言いうしかない木造校舎の廊下を歩く。  #君がセピア色になる前に

2014-11-25 21:52:29
切腹の人. @HarakirimanEX

「卒業おめでとう」  廊下ですれ違う少女たちに藤原は声をかける。  教職に就いてから、毎年この日には同じ台詞を口にする。明日からは個々の生徒ではなくなる(書類上は三月末日までというのは野暮な話だが)女子生徒たちにとって、教師は過去の象徴に過ぎない。 #君がセピア色になる前に

2014-11-25 21:56:21