90年代“ガーリーフォト”は“発見のツール”としての写真

heisodekker(大嶋浩)さんの「たまたま思いついたんじゃが、90年代“ガーリーフォト”ちゅうのは、ようするに“発見のツール”としての写真なんじゃな。たまたま撮られたものから誰かがその価値を発見してくれたのじゃ(その発見者は主に中年の親父だが)。撮ったガーリーたちはその価値に気づくことなく撮り続けたわけじゃ。」のつぶやきから始まった。thataphoto(畑智章)さんとのtwitter上のやりとりをまとめました。
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heisodekker 大嶋浩 @heisodekker

たまたま思いついたんじゃが、90年代“ガーリーフォト”ちゅうのは、ようするに“発見のツール”としての写真なんじゃな。たまたま撮られたものから誰かがその価値を発見してくれたのじゃ(その発見者は主に中年の親父だが)。撮ったガーリーたちはその価値に気づくことなく撮り続けたわけじゃ。

2010-12-04 12:11:31
heisodekker 大嶋浩 @heisodekker

ということはじゃな、“ガーリーフォト”というのは、極めて無責任な写真なわけじゃ。というのも、その価値や意味を他人に委ねたわけじゃから。それも中年の親父たちに。ようするに体を委ねたわけじゃな。あっ、はっ、はっ。

2010-12-04 12:16:17
heisodekker 大嶋浩 @heisodekker

“発見のツール”としての写真。それはわしも認めるけどな。しかしだな、自分で発見することなく、それを見せつけられるのは耐え難いんじゃ、小便が漏れてしまうぞよ。でだが、中年親父たちが発見した価値や意味ちゅうのが問題になるわけだがさ。これがまたどうでもいいわな。わしは疲れたぞよ。

2010-12-04 12:23:30
@thataphoto

そんな事言うなら日本の美術なんか全てダメですわなあ。日本人が気づかなかった「美」をフェノロサとかが「発見」してるるんだし。今でも思想は海外の借り物ばっかりだし。ガールズフォトが見るに耐えないというのであれば、同質の構造を持つ「日本のアート」も見るに耐えないんでしょうね。

2010-12-04 13:23:21
@thataphoto

ガールズフォトに関わらず、全ての創作物はそれを見る第3者の価値に委ねられているのでは? 個人的には、ガールズフォトは少女的価値観の、「中年おやじ」への宣戦布告だったのだと解釈している。

2010-12-04 13:28:28
@thataphoto

ガールズフォトで明らかになったのは、「少女」の剥き出しの内面世界が、中年おやじが求める「グラビアの女」を遥かに凌駕する深さと闇ががあった、という事なのでは?そこに「写真作家」としての意思がないからダメだ、というのはちょっと違う気がする。

2010-12-04 13:31:39
heisodekker 大嶋浩 @heisodekker

@thataphotoへ静かなる応答。「・・・深さと闇があった」かどうかはともかく、やっぱわしは、「後は見る側にすべてを委ねる」という姿勢には納得がいかんのじゃ。そうなんじゃ、「日本人」はフェノロサが発見した「美」に対抗せにゃいかんのよ。いずれが「真の美」かは問題ではないぞよ。

2010-12-04 14:17:05
heisodekker 大嶋浩 @heisodekker

「全ての創作物はそれを見る第3者の価値に委ねられているのでは?」 それはアーティストの傲慢じゃな。他方でそれは、時代の文化を診断するための“症例”という、アーティストの傲慢さを裏返した甘えの自虐的姿勢じゃな。わしはそう思うぞよ。

2010-12-04 14:26:29
heisodekker 大嶋浩 @heisodekker

アーティストは知性はないが豊かな感覚を持っている=自然、批評家(あるいは見る第三者)は感性は貧しいが知性を持っている=文化。文化に先行して豊かな自然があるという、相変わらずの自然と文化の二分法。けっきょく、こういうことじゃな。

2010-12-04 15:02:56
@thataphoto

撮る側の実体験としては、「撮る意思や目的」っていうのと、「写真を見る側の解釈」というのは全く別です。そして見る側には「後は見る側に全てを任し」ているかどうか、は、その写真を撮った本人にしか分かりません。

2010-12-04 18:24:45
@thataphoto

で、どうしてその過程が「アーティストの傲慢」なのかわからない。で、それがアーティスト=自然、批評家=文化という結論にまで行くのかが分からない。説明していただけるとありがたいんですが。

2010-12-04 18:48:50
heisodekker 大嶋浩 @heisodekker

tanakahisateruへ。誤解される書き方をしたかもしれません。写真家の「意図」と見る側の「解釈」が異なるのは当然です。「ガーリーフォト」で指摘したのは単に、表現する意志の欠如、意図の薄弱さにすぎません。批評家(中年親父)はそこにこそ価値を見出してしまったと。

2010-12-05 09:58:10
heisodekker 大嶋浩 @heisodekker

tanakahisateru僕がアーティストの傲慢といったのは、自らの意図の薄弱さを隠し、すべては見る側の解釈に任せるという姿勢です。その姿勢の背景には、芸術=豊かな感覚(自然)という思い込み、信仰があるんじゃないかということです。

2010-12-05 10:13:25
@thataphoto

なるほど。了解しました。ではアーティストとして「見る側の解釈に任せない」姿勢、というのは具体的にはどういう事なのでしょうか?具体的な事例を交えて教えていただければより理解しやすいです。

2010-12-05 13:25:09
@thataphoto

@tanakahisateru 写真家を続けたとして、こんな結末しか待ってないんであれば、写真家なんかやりたくないよなあ(遠い目)。

2010-12-05 13:44:30
heisodekker 大嶋浩 @heisodekker

@thataphoto見る側は作品から撮る側の意図を超えて(以上/以下の)解釈をするわけですが、その解釈はやはり作品の構造(表現者が提示する問い)に強いられる。見る側の解釈とはその問いとの格闘ではないかと。つまり、「ガーリーフォト」にはその問いがなかったというのが僕の判断です。

2010-12-05 14:46:27
heisodekker 大嶋浩 @heisodekker

ですから、撮る側は自分の作品について「こういう意図である」と説明をしろと言っているわけではありません。作品自体に撮る側の意図が構造としてあるということです。「全てを見る側の解釈に委ねる姿勢」というのは、したがって、それ以前の問題です。

2010-12-05 14:51:25
heisodekker 大嶋浩 @heisodekker

つまり、「ガーリーフォト」における意図の欠如は、いわゆる“芸術”や“表現”によって自らの空しさを満たそうとする行為にすぎなかったのではないかということです。

2010-12-05 14:58:18
heisodekker 大嶋浩 @heisodekker

「解釈に任せない姿勢」とは明確な動機や意図をもった作品ということになるでしょうか。そんなことは判断できないと反論するかもしれませんが。少なくとも僕にはそれが作品を見る大前提です。もちろん、明確な意図や動機があるのにそれを見逃すことはあるでしょうが。「ガーリーフォト」においても。

2010-12-05 15:20:15
@thataphoto

@heisodekker このご意見は分かる気がします。過去に大塚英志が「写るんです」等の使い捨てカメラで写真を撮りまくる少女の分析をしていましたが、結論はheisodekkerさんと同じような論旨だったように覚えています。

2010-12-05 16:16:55
@thataphoto

@heisodekker おっしゃる事は良く分かりました。ありがとうございます。では、「明確な意図があるけど明らかにつまらない写真」と、「明確な意図はないけど明らかに面白い写真」、heisodekkerさんなら「アート」としてどちらを選ばれますか?

2010-12-05 16:22:15
heisodekker 大嶋浩 @heisodekker

@thataphoto「明確な意図がある・・・つまらない写真」は当然選びませんが、明確な意図がない=面白い写真というのは原理上、僕には存在しないことになります(笑)。明確な意図がつかめない、それなのに面白い。その場合、面白いと直感した以上、その意図を探るでしょう。

2010-12-05 16:40:39
@thataphoto

@heisodekker 明確なお答えありがとうございます。では、「撮る側の明確な意図」の有無は、写真のどの辺から導き出しておられるのでしょう?これは「撮る側」として僕、の、個人的な疑問ですが‥…。当然撮影者がテキストとして書いたもの、というのもあるとは思いますが。

2010-12-05 18:08:37
heisodekker 大嶋浩 @heisodekker

@thataphoto 作品の構造からです。したがって、撮る側のあるいは作り手の言語化された意図からではありません。作り手の言説を参照するにしても。作品の構造-被写体の選択、視点、ライティング、アングル、レンズの選択、支持体・・・等々の組み合わせからです。

2010-12-05 18:23:02
heisodekker 大嶋浩 @heisodekker

@thataphoto作品の構造を撮る側あるいは作り手がどのように取り扱っているか。その意図を探るのが見る側の楽しみです。この場合、作り手とはあらかじめ存在する人格的な存在ではなく、むしろ構造から事後的に生起する作り手です。

2010-12-05 18:37:39