- JunNakagawaWork
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想像力においては、制約束縛のない空想によって、すべてが期待である。だから、現実社会の制約束縛を疎ましいと感じた時には、自分が想像した様に事態が成ればよいと思う事もあり得る訳である。そういう考えを起こすだけで、自分の力についても空想している事になる。自分の思考力さえ疑うのは難しい。
2014-12-06 11:40:34事実をなにも語らず、すべてを期待させること。つまり、期待をかきたてるように語るが、事実の戸を閉めておくこと――それが演説の術(雄弁術)である。
2014-12-06 11:43:09聴衆に事実を語るなんてまったく愚かな事なのかもしれない。彼らは寧ろ夢を聴きたがっていて、そのほうがよっぱど楽しいのだ。なぜなら、彼らは日々の仕事で嫌というほど現実(の労苦)を体験しているのだから。
2014-12-06 11:46:28法則らしきものを学んで杓子定規な判断を下すようになれば、自分の論説のことには熱中するものだが、他人の論を大目に見てやることはなかなかできない様だ。
2014-12-06 11:49:11モデルの指針たるべき確かな規則をいつも使おうと思ったら、また決して迷うことなしに対象をいつも正しく凝視していようと思ったら、そのために何よりも役立つことは、この世界を記号の集まりとして、したがっていわば文字列の集合として見る習慣を身につけることである。
2014-12-06 11:53:43感情に訴えるという事は、いかにも直接的に作用する様に思われるが、論理を欠き節度を欠いていて、情念が応じあう(稀な)時を除いては、ほとんど説得力をもたない。不快にさえ感じる。
2014-12-09 00:42:33感情の高まっていく様(さま)は、高揚と同時に羞恥を宿している。聴衆を前にする時には特にそうである。結論をはっきり定めている時でなければ、感情を露す事は空回りとなる。しかも、結論を目指して迸る情念の表明さえも、後日、その情念が静まれば、必ずや悔い(滑稽な有り様)となる。
2014-12-09 00:52:40演説では、自分の感情の表明ではなく、寧ろ聴衆のいわば感情的同意を狙っている。有名な先人たちを引用するのも、この理由であろう。しかし、感情的同意というものは、一人一人のそれぞれの感応のぐあい次第である。一様に共有された帰着にはならない。相互いに思い違いが起こる因(もと)である。
2014-12-09 00:59:27雄弁が情念をたきつけ高揚したとしても、決して長続きするものではなく、醒めてしまえば、たとえ聴衆がそれを再び望んだところで、興奮状態には戻れるものではない。
2014-12-12 14:19:47説得されるという事は、すでにその考えには共感しているのだが、自分がどうして共感しているのかをわからないので、説得はこうした情念に方向を与える事にある――「ちょうど私が考えていたとおりだ」と。
2014-12-12 14:22:01実存を、その構成を模した記号(形式言語)と対応させる事によって、同一の観念から出た二つのものとして「同格に」置いた時(意味の対応説)、プラトン主義を認めざるを得ないであろう――ゲーデル氏がそうであった。私は、・・・記号(自然言語)にも固有の論理がある(意味の使用説)と思っている。
2014-12-12 14:27:32批評家のなかには、後出しジャンケンをやるヤツらがあり、事の成らぬ前に先決すべき判断を、事が成ってから とやかく言っては、自分が正しい事を言い張るヤツらがいる。
2014-12-12 14:29:59