理論なき実践は、砂上の楼閣である。

まあ、もとはといえば、アマゾンレビューにイラっとしたことと、やめていった生徒の親の言葉にイラっとしたことが、発端なんですよ(笑)
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福嶋隆史@ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo

技術の上に成り立っていない芸術は、単なるお遊びです。主観的幻影が見えているだけです。

2014-12-21 02:47:47
福嶋隆史@ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo

確固たる理論を持った人が授業を見ると、授業者の教材分析の良し悪しが分かります。一方、理論を持たない人が授業を見ても、そとづらしか見えません。教材どころか、指示発問の意味も分かりません。見えるのは、「子どもが笑っているなあ、いないなあ」くらいです。

2014-12-21 02:51:42
福嶋隆史@ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo

確固たる理論を持った人が教材を見ると、その教材の組み立て方の良し悪しが分かります。掛け算九九を教える教科書が、1の段、2の段、3の段……と順に教えるようになっていないのは、そこに理論があるからです。でも、理論を知らないと、順になっていないことに気づきません。

2014-12-21 02:54:18
福嶋隆史@ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo

気づいても文句を言うだけです。なんでこんなバラバラに教えるんだ、わかりづらい、などと。理論がない人は、自分の〈感覚〉でしか、評価できません。

2014-12-21 02:55:20
福嶋隆史@ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo

2文を構成できないのに200字を、200字を構成できないのに400字を、400字を構成できないのに1000字を書けると思っている子ども、親、教師がいます。砂上の楼閣が一時的にも組み上がれば、満足なんでしょう。

2014-12-21 02:57:36
福嶋隆史@ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo

2文は200字の骨組みです。200字は400字の骨組みです。400字は1000字の骨組みです。1000字は10000字の骨組みです。理論・技術によって支えられた10000字の文章は、9000字が爆風で吹き飛んでも、そこに骨組みがしっかり残ります。砂上の楼閣は、そうはいきません。

2014-12-21 03:03:56
福嶋隆史@ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo

2文を読めないのに400字を、400字を読めないのに1000字を、1000字を読めないのに5000字を読めると思っている子ども、親、教師がいます。溺れたような泳ぎ方でも、なんとか池を渡りきれれば満足だ、というわけでしょう。でも、池が湖に、湖が海になれば、溺れるしかありません。

2014-12-21 03:07:25
福嶋隆史@ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo

プールの中で、泳ぐ技術をしっかり身につけているならば、海に出て波が荒くなっても、無事対岸まで泳ぎ着けるでしょう。理論と、それに基づいた技術の積み上げこそが、どんな暴風や荒波の中でも切り抜けていくこと、すなわち「実践」のために、不可欠なのです。

2014-12-21 03:10:15
福嶋隆史@ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo

私の本は、その意味で、きわめて実践的です。そして、私が塾で教えていることも、実践そのものです。実践以外のなにものでもありません。

2014-12-21 03:12:06
福嶋隆史@ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo

現場が命、みたいな人は、危険です。100の現場に足を運んでも、1の理論を持たなければ、まったくの無駄です。1の理論を持って5の現場に行けば、十分、それを越えられます。

2014-12-21 03:23:16
福嶋隆史@ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo

そもそも勉強とは、そういう理論を積み上げるものなんですけどね。今の教育界は、重たい暗雲に覆われています。つまり、「教科横断」「総合」「合教科」至上主義、あるいはそういう発想のもとにある「細分化への恐怖」のような感覚。

2014-12-21 03:26:49
福嶋隆史@ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo

理論の理とは、もともと、整然と分けることを意味します。細分化こそが、理論のスタートラインです。総合学習のような発想、教科の壁を取っ払えというような発想は、理論への挑戦です。

2014-12-21 03:30:17
福嶋隆史@ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo

でも、総合学習が始まるよりもずっと前から、恐ろしく総合的な教科があったのです。それは、国語です。1文を組み立てる理論、2文を組み立てる理論。そういう細分化されたものを与えず、原稿用紙数枚の作文をいきなり要求し、5000字を超えるような長文をいきなり読ませる。

2014-12-21 03:32:52
福嶋隆史@ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo

その意味では、学校も塾も、やっていることは同じです。いずれにせよ、長文。いずれにせよ、理論なき実践。

2014-12-21 03:33:50
福嶋隆史@ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo

そういう中で育ってきた親・教師が、数千字の長文を読ませるような読解問題を見て「ああ実践的だ~!」と思ってしまうのは、まあ、無理もないですね。でも、可哀想です。何も分かっていないのですから。そう、「分かって」いないのです。理論と実践の意味も、「分かって」いない。分けていない。

2014-12-21 03:35:44
福嶋隆史@ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo

言語における「実践」とは、思考そのものです。読解問題という砂の上で楼閣を組み立てる。砂の上の審判員が100点を与える。隣では別の子が砂上の楼閣を作っている。それは90点だ。わーい勝った。偏差値が上だ。

2014-12-21 03:41:59
福嶋隆史@ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo

でも、五十歩百歩です。2人とも、たいした思考はしてません。読解問題の大半は、たとえ点数を取っても、思考したことの証明にはなりません。なぜなら、点数を与える側が、思考をしていないからです。

2014-12-21 03:46:13
福嶋隆史@ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo

大手進学塾の読解記述設問。採点後、正解率が出ます。たとえば、19%。へー、19%もの子が、この100字記述の問いで満点答案を作ったのか。驚きます。その19%の答案を、同時に見てみたいものです。おそらく、採点基準がバラバラです。採点者が、思考をしていないと、そうなります。

2014-12-21 03:48:56
福嶋隆史@ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo

私は、子どもの文章に評定を加えるとき、必ず評定基準を伝えます。みな、同じ基準です。必ず納得させることができます。低い点でも、子どもたちは、ぐうの音も出ません。それは、一定の理論のもとに存在する基準だからです。子どもたちも、その理論を学んでいます。だから、納得します。

2014-12-21 03:55:37
福嶋隆史@ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo

でも、大手進学塾は、どうなのでしょうか。10点満点の記述問題で、答案が4点だったとして、6点差し引かれた理由を、採点した教師は理路整然と説明できるのでしょうか。あるいは、ある子が別の子の答案を持ってきて、「この子の答案よりどうみても高いと思うんですが」と言ったとしたら?

2014-12-21 03:58:45
福嶋隆史@ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo

そこで怯まずに説明できる教師は、立派です。そういう教師は、理論を持っています。でも、きっと、多くの教師は怯むでしょうね。そして、こう言うのです。「模範解答を読んでごらん。かなり違うだろう」などと。あるいは、「いやー、きみの答案は、ほら、文章中に書いてないことだからね」とか。

2014-12-21 04:00:03
福嶋隆史@ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo

依拠する理論がない教師。そういう教師が教え、そういう教師が採点する。理論なきままにゴリ押しで納得させられる子ども。理論なき教師に教わっていることを知らずに子どもの得点を鵜呑みにする親。

2014-12-21 04:02:13
福嶋隆史@ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo

そんなテストでは、たとえ点数が上がったって、全然意味ありません。

2014-12-21 04:03:01