【三国志】建安十三年 江陵攻防戦(曹仁VS周瑜)

ふと思い立ったので、赤壁の戦い後の江陵攻防戦について考えた。
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江陵攻防戦についての考察

Jominian @Jominian

曹仁の江陵防衛はいまいち経過がわからないな。呂蒙伝を考慮すると、孫権軍の渡河は夷陵を奪取して甘寧を救った後であるが、夷陵は江陵西北で孤立した場所にあり、渡河の障害になるような感じは地図からはしない。いや、違うのか。夷陵は孤立してるからこそ、渡河の障害ではなく橋頭堡になるのか

2015-01-19 00:14:27
Jominian @Jominian

残った記述から考えると、建安十三年の江陵攻防戦において、曹仁は自ら江陵に籠もると共に、城外に遊軍を置いて敵の半渡に乗じる姿勢を見せてその渡河を防いでいた。そこを、夷陵が手薄と見た甘寧は、これを奪って北岸へ渡ることを計画する pic.twitter.com/ivs1AQXzD3

2015-01-19 00:42:56
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Jominian @Jominian

曹仁は夷陵が奪われたことで、敵の渡河を防ぐことが難しくなると判断し、城外の別働隊数千を割いて救援に宛てた。しかし、それは周瑜ら呉軍本隊の攻撃を受け、大きな被害を出して失敗する。 pic.twitter.com/YGbaxE8VJ2

2015-01-19 00:44:19
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Jominian @Jominian

夷陵の奪取を成功させたことで、呉軍は妨害されることなく渡河を行うことができるようになった。これにより、甘寧始め呉軍は多くを江北に渡河させ、曹仁の包囲を開始することができるようになった。牛金を突撃させたのも、この夷陵攻防の後だろう pic.twitter.com/oHeLrJJzTS

2015-01-19 00:46:15
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Jominian @Jominian

曹仁の江陵での戦い方は、後の樊城での戦い方に通じる気がする

2015-01-19 00:54:58
Jominian @Jominian

建安十三年の江陵攻防戦において、夷陵は渡河の起点となった。一方で、劉備は夏水を上って曹仁の背後を突くよう進言した。夏水自体は江陵手前で長江に合流するため、背後を突く動きにならない。これは、漢水に入った上で、当陽方面に出ようという進言だろう。関羽の位置はこれと符合する

2015-01-19 13:33:08
Jominian @Jominian

曹仁の後ろに出ようという劉備の進言と、夷陵を奪った周瑜の動きとを併せて考えると、劉備を保険として使ったように読める。漢水からの迂回は時間が掛かるし、そこに注力して周瑜の動きが鈍れば感づかれる。まずは夷陵を奪い独力で渡河を進め、失敗しても劉備の行動で渡河を為せると踏んだのだろう

2015-01-19 13:37:30
Jominian @Jominian

呂蒙は夷陵で曹仁別働隊を撃破した後、戦利品と共に帰還し、その後に渡河した。周瑜伝によると、周瑜は夷陵の包囲を解いた後、そのまま北岸に営を築いたように読める。甘寧は夷陵から動いた様子がない。夷陵から渡河した隊が江陵に迫らないと、南岸からは渡河できない。牛金が突撃したのは周瑜隊である

2015-01-19 13:46:02
Jominian @Jominian

三百の牛金を数千に突っ込ませるのは愚策に見えるが、遠方よりきた敵に精鋭を当てて意を挫き、撤退に追い込むというのは例がないわけではない。曹仁もそう戦ってきたのだろう。惜しむらくは、恐らく相手が周瑜であり、簡単に立て直されたことだ。曹仁の勇で先鋒が崩れれば南岸の隊は渡河できたかどうか

2015-01-19 13:51:02

江陵攻防戦の推移_修正案

劉備が夏水を通って曹仁の背後を突こうとしたという呉録の記述を思い出したので、考察を修正しました。

Jominian @Jominian

昨日作った図を、劉備や徐晃、満寵の動きも含めて作り直そう

2015-01-19 18:28:01
Jominian @Jominian

江陵攻防戦当時で、曹仁が夷陵奪回に派遣できる数千の兵を率いる将は徐晃くらい。徐晃を城外で遊軍としたのはあり得る。満寵は曹操が北へ退く際に当陽に駐屯しており、漢水から上ってきた関羽を徐晃と共に討っている。徐晃伝でも、江陵で周瑜と戦った記述は、関羽撃破後のことである。

2015-01-19 18:31:45
Jominian @Jominian

江陵攻防戦考修正(1)。劉備による夏水からの迂回を追加し、徐晃と満寵がそれに対応したこととした。(周瑜伝注呉録、満寵伝、徐晃伝) pic.twitter.com/8h9VcDPtS7

2015-01-19 22:28:25
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Jominian @Jominian

江陵攻防戦考修正(2)。劉備たちは漢津で敗れたが、戦役の最終局面で江陵北側にいた事から、まだ戦力を保持していたと判断。徐晃は江陵での攻防に参加したことから、城内へ戻ったと見た。 pic.twitter.com/2GC5UVBfgb

2015-01-19 22:30:15
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Jominian @Jominian

江陵攻防戦考修正(3)。李通の動きを追加。李通は曹仁脱出の為の援軍であり、その投入は約1年後、江陵での攻防が終わろうとしていた時期である。 pic.twitter.com/5rCqXXbFp7

2015-01-19 22:31:12
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Jominian @Jominian

他に有力な将が見当たらなかったので、建安十三年の江陵攻防戦で夷陵に向かったのを徐晃と初めは思ったが、夷陵攻防の後に周瑜らが進出しているのを考えると、それとあまり変わらない時期に漢津での関羽との攻防があったと考えた方が良いので、徐晃はそちらへ配されたと考えた。

2015-01-20 00:13:06
Jominian @Jominian

周瑜なら、敢えて夷陵攻撃を微妙に遅らせて、関羽たちを曹操軍に発見させてから夷陵を奇襲するとかしそう。敵の注意は北に向くし、関羽たちの戦力もバカにならないので、夷陵へ差し向けられる救援も少なくなる。

2015-01-20 00:22:13

甘寧や呂蒙に敗れた魏軍の将は誰か?

Jominian @Jominian

夷陵攻撃の救援に向かった魏軍は、その半数以上が死んだ。夷陵という土地が、一度入ったら脱出が困難になることをよく示している。また、過半が死んだとすると、捕虜も含めたら壊滅的被害である。この時の将軍は死んだか、生きていても復権はならなかっただろう。徐晃では無いな

2015-01-20 00:24:11
Jominian @Jominian

@HAMLABI3594 確かに、当時の有力な将軍では、馮楷だけが後に出てこないし、あり得るかもしれない。数千を率いることができて、且つ以降出てこないという条件に合致する

2015-01-20 00:36:44
Jominian @Jominian

趙儼が荊州征伐で七軍を督した時、竟陵太守も兼ねた。恐らく、漢水を通って曹操と合流を図った筏組が、この趙儼軍だろう。

2015-01-20 08:57:58