「フジ・サン・ライジング」 #1
「ドーモ。乗客の皆様、オツカレサマデス。安全で・早く・信頼性の高い、我々オバンデス航空をご利用いただき誠にありがとうございます。まもなく添乗員が機内食を運んでまいります。ネオサイタマのネオナリタ空港への到着は7時間後……」
2010-11-22 16:53:54スナバ=サンは機内アナウンスと合成オコト音で浅い眠りから覚めた。狭いシートで凝った体を伸ばしながら、隣に座るモマメを見やる。明日六歳になる愛娘は、人気キャラ「モチヤッコ」のぬいぐるみを抱いたまま、静かな寝息を立てている。
2010-11-22 16:59:57シートに据えつけられた小型ディスプレイを操作し、なにかめぼしいオンデマンド映画は無いか探す。「お米づくりと日々」を選択する。シュンブン・カワバの最新主演作だ。シュンブンにはサイバネティック疑惑がついてまわる。それほどまでに完璧な美貌なのだ。
2010-11-22 17:28:54「フー……」スナバ=サンは低く溜め息をついた。ネオサイタマの大学病院に入院していた妻の腎移植手術成功の報せが届いたのは昨日のことだ。涙を流して喜び、そして安堵した。その後、張り詰めた緊張の糸は緩み、それまでこらえていた疲れがどっと押し寄せた。
2010-11-22 17:35:11スナバ=サンはキョート・リパブリックで三番目に古いウナギ屋の長男である。伝統と格式に縛られ尽くした己の人生を呪い、その血を恨んだことは一度や二度では無い。
2010-11-22 17:54:10しかし、生まれた時から決められていた妻の事をスナバは深く愛していたし、今回の手術についても、もしスナバが一介のサラリマン程度であれば願望する事すら許されなかっただろう。これからは節約しなければいけない。
2010-11-22 17:58:09「遠いなあ、ネオサイタマは……」スナバは独り言を漏らした。隣にカートが来たので、スナバはイヤホンを外した。「ドーゾ」カートを引いて来た白人女性の添乗員から、真空パックされた機内食を二食分受け取る。「ガンモご飯です」白人女性が笑顔で説明した。
2010-11-22 18:13:03ガンモとは、ニンジンを中に詰めたフライド・スシのことだ。添乗員がカートを手で示し、「それからチャワン蒸しとヤツハシ、どちらか選べますよ」「ヤツハシがいい!」モマメがいつの間にか目を覚ましていた。スナバは微笑し、「じゃあ、この子にはヤツハシで、ぼくにはチャワン蒸しを」
2010-11-22 18:15:59「ヨロコンデ」美しい白人女性は流麗な日本語でアイサツし、モマメに直接、やはり真空パックされたヤツハシを手渡した。チャワン蒸しは紙製の円柱状のパックに入っている。家庭では囲炉裏にかけた鉄の碗からよそうのだが、さすがに機内でそれは無理だ。
2010-11-22 18:25:01「それから、ええと、サケをください。この子には何かジュース……」「グレープ味があります」「じゃ、それを」添乗員は滑らかな手つきでカートから缶飲料を二つ…サケとグレープ味のジュースを取り出した。
2010-11-22 18:43:43スナバは機内食パックの蓋を開いた。汁気の多い米の中に小さいガンモがいくつか入っている。「熱い?」モマメが訊く。スナバは汁っぽいガンモを箸で口に運ぶ。「大丈夫だよ」「イタダキマス!」モマメも食べ始めた。
2010-11-22 18:53:50添乗員は前の座席へゆっくりとカートを押して行く。スナバはしばしその後ろ姿に見惚れた。ただでさえ「ガイジン」は珍しいが、美貌であるし、金髪も美しい。添乗員のスーツがよく似合い、知的かつセクシーだ。これもオバンデスの企業努力の一貫か……疲れたスナバはとりとめもなく考えた。
2010-11-22 19:11:00前の席の老人が不安げに口にする。「添乗員さん、わしゃ、どうも落ち着かなくて。この、鉄の塊が飛ぶっていうのがどうもね」「ご心配要りませんよ。当社は創業120年ですが、墜落事故など一度も起こしたことがありませんから」「孫の顔を見に行くんです。初孫で……」「それはよかったですね」
2010-11-22 19:14:04「ネオサイタマは水が悪いっていうでしょう。私はキョートに来なさいって何回も言ってるんだが。でもね、孫がかわいいんだ、これが。IRCで写真が届いたんですがね……」「それはとてもよかったですね」「でしょう、それがね、本当にかわいいんですよ」
2010-11-22 19:22:02なかなか添乗員を解放しない老人に心のなかで苦笑しながら、スナバは茶碗蒸しのパックを開け、プラスチックのスプーンで食べ始めた。オキアミが申し訳程度に入っており、甘い。ディスプレイではシュンブン・カワバがCG合成のコメ畑で働いている。心安らぐ、古き良き光景だ。
2010-11-22 20:10:50「お母さんに、運動会でシシマイ体操したこと、言おうね!」モマメが輝かせて言った。「そうだね」スナバは頷き、窓の外を見やった。…「飛行機は乱気流に近づきます。少し揺れたり、ディスプレイの映像が乱れますが、そういった自然現象ですので、問題はございません…」機内放送が流れてきた。
2010-11-22 20:37:59リラクゼーション効果のあるモクギョ音がうっすらと聴こえてきた。スナバはトレイを戻し、シートに深くもたれた。意外にお腹が膨れてしまった。モクギョを聴きながら映像をぼんやり見ていると、眠ったばかりだというのに、自然とまた眠くなる……。
2010-11-22 20:40:36「何度経験しても慣れんものだ。この乱気流というやつは」忌々しげに秘書に向かって言うと、ディンタキ・カツマはアンコをかけた大豆100%トーフを箸で割り崩した。
2010-11-22 21:06:34ディンタキ・カツマが座すのはオバンデス航空の旅客機「サアイ11号」にたったひとつだけ用意されたファーストクラス・シートである。フスマ型ドアーでビジネスやエコノミーとは物理的に隔絶され、タタミ敷きの快適な茶の間づくりになっている。当然、フートンで寝ることができる。
2010-11-22 21:10:09カイヅマ・ショーユ社を一代で築き上げたディンタキ・カツマの老いた横顔には、気難しさと誇りが深い皺となって刻まれている。二口でアペタイザーのトーフを食べ終えたディンタキ=サンは、マツタケ入りのタマゴ焼きを三切れ一度に挟み取った。不作法であるが、タイムイズマネーが彼のモットーである。
2010-11-22 21:33:54「明日のカンファレンスは10時でよかったな?」スシを食べながらディンタキ=サンは秘書を見やった。「はいそうです」シチサン・ヘアーの秘書は黒縁の眼鏡を手の平で直した。「その後13時10分からカスミガセキ・ジグラットで官庁との打ち合わせを。移動にはヘリを使います。申し訳ない」
2010-11-22 21:57:09「ヘリか」大豆100%ミソスープをすすり、ディンタキ=サンは呻いた。「仕方ないな」「スミマセン」「お前は謝らんでいい」「スミマセン。その後、15時から検診です」「うむ」
2010-11-22 22:05:30ディンタキ=サンは昨年、肺ガンで片肺の摘出手術を行っている。彼は再発の可能性を視野にいれて経営の舵を取ってきた。タイムイズマネー。日に日にその矜恃は重みを増してゆくのだ。
2010-11-22 22:49:56