岩上安身さん、死の淵から過去への回想ツイート(早朝)

岩上さん、身体お大事に。
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岩上安身 @iwakamiyasumi

2月21日は土曜日だった。今月の21日も、奇しくも土曜日にあたる。つまり今週末の土曜日で、帯広でハートアタックによって倒れてから、まる4週間、一ヶ月が経過したことになる。最初の2週間の間に、大きな発作に見舞われて3回、救急搬送された。

2015-03-20 02:39:04
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き。その次の3週目、そして4週目にあたる今週は、薬があったせいか、仕事をセーブするなどしてきたせいか、これまでのところ、大きな異変や発作に見舞われずにすんでいる。「でも、油断してはいけません」とドクターからは釘を刺されている。

2015-03-20 02:41:21
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き3 ドクター「薬を飲んでいるから安定しているのに、発作が起きない状態が続くと安心してしまい、そのうち薬を飲み忘れてしまって、ある日突然、発作が起こる、という患者さんが少なくないのです」と。忘れてはいけない。今、どこへ行くにも薬と病院での検査データを持ち歩いている。

2015-03-20 02:43:47
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き4 検査データの中には、帯広でカテーテル検査をした際の心臓の画像のDVDも含まれている。攣縮の痕跡がはっきりとわかる心電図のコピーも。いつか、きっと必要になる、と思って持ち歩いて、実際、2回の救急搬送の際、これが役に立った。2度も3度もカテーテル検査をされたらたまらない。

2015-03-20 02:50:13
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き5 血圧計も持ち歩いていた。今はもうひとつ購入して、会社においてある。今日は注文していた介護用ベッド(電動で頭の位置が上下できるもの)が届いた。これをオフィスに入れて、自分の座っている机の後ろ、本棚との間に設置した(もちろん、血圧計もベッドも自腹の購入である)。

2015-03-20 02:53:23
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き6 「とにかく安静にして休むように」と医師に言われる。多くの人からもそう助言される。同じ病気になった、という体験者からもメールが寄せられ、入院して休んだ、自宅で一年間休んだ、などと、休養や静養を勧める声が数多く届く。その一方で、IWJの経営がピンチの現実が目前にある。

2015-03-20 02:58:46
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き7 「休むべき」というコマンドと、「休んでいたらIWJが潰れる」と、危機を告げるアラームが、同時に鳴り響いている。この分裂を解消すべく、考えたのが、会社で横になりながら、仕事をする、という苦肉の策だ。

2015-03-20 03:03:39
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き8 「次に倒れたら、即、入院」と、3度目に倒れた時に搬送先の小田原の病院の医師に言われた。すぐ頭に浮かんだのは、病室で横になりながら、いかに仕事をするか、だった。

2015-03-20 03:06:27
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き9 実際には、病院のベッドでそんなに仕事をすることはできないだろう。しかし、スタッフに指示を出さずに会社が運営できるわけもない。だったらやはり、倒れて入院するわけにはいかない。倒れる前に、横になって安静にすべきだ。

2015-03-20 03:08:22
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き10 そうだ、病院で横になって仕事をするより、会社で横になって仕事をしよう! 倒れる前に、横になろう。病院に入院するのではなくて、会社に入院しよう。そう思いついた。社長がゴロゴロしていたら、スタッフの士気は低下するかもしれないが、本当に入院してしまうよりマシである。

2015-03-20 03:10:30
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き11 寝ながら、仕事をするって、事情を知らない人から見たら、ナマケモノにしか見えないだろう。先日、匍匐前進、という言葉を使ったが、本当にそんな姿になってきた。地を這うようにして、じりじりと前へ進むのだ。歩みは格段にのろくなるけれど、確実に前進は続ける。決して諦めない。

2015-03-20 03:14:10
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き12 もうひとつ購入したのが、ペンダントだ。ロケット、というべきか。首からぶら下げている。ロケットの中身は、ニトログリセリンの錠剤。肌身離さず、お守りである。まさか、映画や小説などでおなじみのニトログリセリンを手放せない身になるなんて、一ヶ月前には想像もしていなかった。

2015-03-20 03:19:37
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き13 僕は大学の半ば、二十歳の頃に結婚し、子供もつくった。結婚を親に承諾してもらうと同時に、父親から自立して自分でやれ、といわれ、本格的に働き始めた。働きながら、学校へも通った。学費も大学3年から自分で稼いで払い、子供のミルク代も稼ぎ出した。

2015-03-20 03:26:18
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き14 早稲田は、あの頃は、出席を取らないありがたい教員がたくさんいた。今は出席を義務付け、出席をしない学生に単位を出さないことを当然視するバカな教員がいくらでもいて、このツィッター上でも絡まれたことがある。義務と権利が転倒していることがわからなくなっている。

2015-03-20 03:28:42
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き15 昼間は働いたり、あれこれ動き回ったりもしていて、落ち着いて本を読むのは夜中だった。その頃から睡眠不足になるまで夜中に本を読む癖がついた(高校からその癖はあったけれども)。六畳一間のアパートである。妻からは迷惑がられる。仕方なくダイニングなしのキッチンで本を読み続けた。

2015-03-20 03:32:55
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き16 出版社に就職して、編集者になり、そこでもメチャクチャに働いた。一週間徹夜したこともある。そこを辞めてから週刊誌の記者になり、この時も猛烈に働いた。ストレスが溜まる仕事だったので、ストレスの解消のために、本格的にフルコンの空手道場に通い出した。

2015-03-20 03:37:31
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き17 鬱憤は、すべて サンドバックに向かって吐き出した。仕事の徹夜明けでヘロヘロになっていても道場へ向かった。フルコンの空手道場で、ガチンコの組手を行う。少しでも気を抜けば、ノックアウトされる。入門して早々に、組手で黒帯に上段回し蹴りを叩き込まれて、意識を失った。

2015-03-20 03:42:36
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き18 学生時代、ラグビーの練習でスクラムの最中に脳震盪を起こし、失神して以来の失態である。今度は、のんきな学生時代の話ではなく、社会人として働いて妻子を養っている時の話である。こんな目に何度もあったら、仕事にならない。そう思ったが、道場通いは、やめなかった。

2015-03-20 03:45:38
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き19 生きることは文字通り戦うことで、仕事をすることで必然的に抱え込む神経的なストレス(写真週刊誌の記者の仕事は殺伐としていて、理不尽なことだらけで、およそジャーナリズムの理想からはかけ離れていた)を払拭するためには、それをはるかに上回る肉体的なストレスが必要に感じられた。

2015-03-20 03:50:23
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き20 その週刊誌の契約記者もやめ、完全なフリーになったのは、27歳の時。頼るべき組織がまったくなくなり、未熟なのにひとり身になったとき、自分が太平洋を自力で泳いで横断しようとしている心細い泳ぎ手になったような気がした。ますます、心は張り詰め、休めなくなった。

2015-03-20 03:53:44
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き21 フリーは、自分の時間が自由になる。組織に縛られず、気楽で、気ままな商売だと多くの人が思っている。実際には、組織に守られず、というのが、実態である。気楽どころか、気は全く休まらない。恒産があるとか、独身だとか、子供がいなくて共働きだったらまた違っただろう。

2015-03-20 04:03:46
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き22 あるフリーの先輩ジャーナリストに、酒を飲んだ時、「え、岩上、お前、若いのに妻子を養ってるの⁉︎ そんな奴、この業界で聞いたことがない。フリーはだいたい働き者の女房に養ってもらってるか、養われてなくても、食わせてはいない、女が自分で働いてるかのどっちか」と言われた。

2015-03-20 04:08:53
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き23 先輩のお名前を記しても怒られはしないだろう。吉田司さんである。ご本人は酔っ払っていて、覚えていないかもしれないが。

2015-03-20 04:10:33
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き24 色々なことがあったが、フリーになって2年後の29歳の時、ペレストロイカのソ連に取材に行くチャンスをつかみ、月刊「文藝春秋」に署名記事を書いた。それをきっかけにソ連へ取材に何度も行くことになった。89年、ベルリンの壁崩壊の年だ。世界が激しく動いていた。

2015-03-20 04:14:16
岩上安身 @iwakamiyasumi

続き25 話はもうどんどん飛ばすが、その取材をまとめて本にして、処女作で賞をいただいたり、95年のオウム事件の時には、それなりにスクープもものして、テレビでコメントするようになり、それなりに仕事は順調に積み重ねてきた、ように見えたことだと思う。外からみた時には。

2015-03-20 04:19:25