へえ……楯丸センパイって秋刀魚好きなんだ……

生きてるか死んでるかでいうと死んでる @urea_ch

火曜日と、金曜日。その曜日のセンパイは、もう夜も更けた頃、まるでお手洗いにでも行くかのように忍び足で外に出るのを、あたしは知っていた。ばれちゃ嫌な隠しものをするみたいに、隣のベッドで寝るあたしを気遣って、センパイは、物音一つ立てずに、外に出て行く。

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一度だけ後ろを追っかけてみたことがあるけれど、センパイはあれで足が速いから、扉を開けるともう、ぽつぽつと道路を照らす電灯と、コンビニしか見えなかった。一人であんまり外にでないように、とセンパイはよく心配そうな顔で言うから、あたしは結局それに従って、布団に帰ったけれど。

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そしてこれもいつものことなんだけれど、翌日、つまり水曜日と土曜日の朝のセンパイは、なんだか、あたしの嫌いな匂いをしている。つんと鼻をつく、いい匂いなはずなのに、なぜだか不快な匂い。「センパイ、あの、トイレの消臭剤みたいな匂いがするんですけど……」

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「……ああ、ごめん、優良。すぐお風呂入ってくるから」「ご飯、もう少し時間かかるから大丈夫っすけど……」そのときのセンパイの表情が見えなかったのは、センパイが目をそらしたからだと思う。昔からそうだ、後ろめたいことがあるとき、センパイはあたしの方を見てくれない。

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きっと、言いたいことがあったところで 、それが言えないことだって、あるのだろう。特にあたしはあんまりセンパイの役に立てるほど賢くもないから、聞いたところで、聞くだけで終わってしまうことが、多分、往々にしてある。だからあたしは結局何も言及せずに、仕事に向かうセンパイを送り出した。

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その日の午後は雨が降ってきたから、慌ててお洗濯物を取り込んでいるところだった。ぴんぽーん、とチャイムの音が鳴る。「あ、いま、でますー」センパイとあたしの家は、小さなアパートの一部屋でしかないから、それで玄関まで届く。だってのに、もう一度、急かすようにチャイムの音。

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センパイはこんな時間に帰ってこないから、宅急便だろうか、それともいつものNHK。NHKは、センパイがいないと、追い返すのが苦手なんだけど、と思ってドアを開けると、予想とは全然違って、そこにいたのは見知らぬ女の人だった。

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目に痛い色のくるくる巻いた髪の毛に、紫色の目立つ服。裾は雨で少し汚れてる。あたしより頭一つ分、身長が高い。そして、鼻をつく、不快な匂い。センパイが水曜日と土曜日の朝に身体にまとっている、あの匂い。「あなた、」玄関の敷居もまたがずにあたしを見下ろしてる。「楯丸の、なに？」

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「え、なに、っていうか……大学の後輩、です、あ、でも、卒業は一緒にしたんすけど」「……ん、」値段を定めるみたいに、あたしの頭の上からつまさきまで、じっくりと、その目線がよじ登る。なんだか気味が悪い、けど、センパイのお客さんみたいだ。だから失礼はしちゃいけない。

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「家に私を呼ばなかったのは、そういうこと、ふぅん」一人で納得したように呟くけれど、なんのことかわからない。センパイのお友達だからきっと賢いんだろう。センパイの言うことも、時々難しくてわからないことがあるし。

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「あの、センパイに何か、ご用ですか。たぶん、夕方まで帰ってきませんけど……」「あぁ、もういいの」女の人は、呆れたような声色で返した。もうこっちを見ていない。興味の対象は家の中にうつったのか、ちらちらと奥を見ている。「大学からの知り合いなんだ、あれと。ずっと一緒に住んでるの？」

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「卒業してからそうっす。そちらもセンパイのお知り合い、ですよね？」間違ってたら失礼だから、ちょっと発言に自信がなかった。「お知り合い、お知り合いっていうか、まあね、うん、そんなもん」女の人は言葉を濁す。「煙草、吸っていい？　ここ」

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「あ、えっと、ごめんなさい。センパイもあたしのためにやめてくれたので、煙草、申し訳ないんですけど」「……きみの前じゃ煙草も吸わないんだ、そっか、うん」それから目線がこっちに戻ってくる。またあたしの身体を、上から下まで、じっと。

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その哀れむみたいな視線を、あたしは大学のときから知っている。何度か向けられてきたもの。「あなた、うん、あたしとちがって、楯丸から大事にされてるわよ。ほんとうに。傷一つつかないくらい」その哀れむみたいな目のまま、言う。口元はちょっと笑ってる。「面白いもん見れたから、帰るわ」

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その人は、最後まで敷居をまたがなかった。真っ赤なヒールは脱がれなくて、結局その人の視線は、ずっとあたしより高いままだった。

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「センパイ、そういえばお昼、女の人が来ました」「宅急便？」「あの、センパイの知り合いの。髪の毛くるくるの人です」カッターシャツのネクタイをほどきかけていたセンパイはその手を止めて、身体ごとこっちを見た。さっき、ただいま、って優しくいってくれたときとは違う、怖いかおだった。

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「優良、その人、なんて言ってた？」「え、っと」いつもはあんまり見ないセンパイの怖いかおに、つい気圧されてしまう。普段のセンパイは、怒ってても優しそうなのに。こんな顔、滅多に見ない。……大学を卒業する前の、あのときみたいだ。センパイが、あたしを助けてくれた、あのとき。

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「あたしが、センパイに、大事にされてるって」「それだけ？」「あと、トイレの消臭剤みたいな、その……香水の匂いが、しました。今朝のセンパイと一緒の」するとセンパイは、一瞬だけ目を見開いて、下を向いてしまう。あ、なにか怒られるようなこと言ったかな、と少し心配になった。

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「あの、センパイ、もしかして……香水メーカーの社員さんとか、そういうのですか？　追い返しちゃ、悪かったですか？」あたしの頭は、センパイが望むほどには回らないから、こんなことしか言えない。きっとこれも違うのだろう。センパイは何も返さない。

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「あの、センパイ、今日、センパイの好きな秋刀魚なんですけど」「優良、」ようやく口を開いたセンパイは、そしてあたしの肩をつかんだ。今にも泣きだしそうな目が、こっちを見てた。「あの人は、優良と知り合う前の大学の知り合いで、縁はきったつもりだったんだけど、また会わないかって言われて、」

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「もう、会わないから、ごめん」

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その中にあたしの顔が反射して見えるくらい近くにあるセンパイの両目が、もう今にも子供みたいに泣きじゃくりそうなのが、なんだかおかしかった。「センパイ、そんなに早口で言われても、わかんないんすけど……」

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「っていうか、肩、痛いっす……」「あ、ああ。ごめん……」慌てたような声でセンパイはぱっと手を離す。センパイの言うこと、やっぱりよくわからないことがある。センパイは格好良くて、やさしいから、友達だって多いし、別に、会わない、なんて言わなくたっていいのに。

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「よくわかんないけど、あの人の言う通り、大事にしてくれてるん……す、よね？」「ああ、うん、そうだ」「じゃあ、謝んなくても、大丈夫です。センパイの考えること、いっつも正しいですから」あたしが大学を卒業できたのだって、そもそもちゃんと大学を出られたのだって、センパイのおかげだ。

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あたしはセンパイとくらべて要領だって悪いから、センパイの言うことを聞いてたほうが大抵うまくいく。だから、今だってそう。センパイが大事にしてくれてるんなら、きっとあたしは、それで正しい。