慈心解脱と覚りの完成(沙門果の成就)

パーリ小部「如是語(Itivuttaka)」の慈修習経(Mettābhāvanāsutta)に出てくる慈心解脱(Mettācetovimutti)と覚りの関係について、@qteraq さんの質問を受けてあれこれ調べて考えてみました。当たらずとも遠からず、で参考になれば幸い。
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@qteraq

@naagita 2011年1月号のpatipadaを頂いた者です。47から49ページに「慈愛の修行の経」があります。その中に「慈愛の心による解脱」という言葉があります。しかし慈悲の瞑想では心を統一し、禅定をつくることまでしかできないと習っております。 続く

2010-12-19 11:45:32
@qteraq

@naagita つまり「慈愛の心による解脱」にある「解脱」の意味は、「慈悲の瞑想で禅定に入定している状態」のことでしょうか? 解脱には2つの意味(悟り・禅定を作ること)があるのでしょうか? もしそうならば、この場合は悟りではなく、後者の「禅定を作ること」なのでしょうか?

2010-12-19 11:51:30
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

@qteraq 慈心解脱はパーリ増支部などが出典です。慈しみの瞑想で、心が煩悩から解脱した状態です。つまり安定した禅定状態に入ってる事です。智慧の開発により無明から解脱する事は慧解脱と言います。これが両方同時に起こる倶分解脱と、智慧のみで解脱する慧解脱があるとも言います。

2010-12-20 00:19:41
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

@qteraq 心解脱に至った修行者には当然、慧解脱も起こるのですから、慈悲の瞑想をしても禅定を作る事しか出来ない、覚りに繋がらないというアビダンマの説明は論理的におかしいと思います。ただ、四無量の修習と四沙門果の関係が経典のなかであまり明確に説かれていないことも事実です。

2010-12-20 00:28:44
@qteraq

@naagita 心解脱→禅定を得るのみで悟っていない。慧解脱→禅定を得て悟った。心解脱の人→カーラーマ、ラーマプッタなどの禅定を作るが悟っていない人。慧解脱の人→預流果・一来果・不還果・阿羅漢果のどれかになった人。以上の理解で良いでしょうか?

2010-12-20 03:53:11
@qteraq

@naagita 「心解脱に至った修行者には当然、慧解脱も起こる」の意味が分かりませんでした。心解脱が禅定のみを意味し、慧解脱が悟りを意味するなら、「禅定に至った修行者には当然、悟りも起こる」になってしまいます。しかし禅定の達人のカーラーマもラーマプッタも悟ってません。 続く

2010-12-20 03:55:12
@qteraq

@naagita 質問させて頂いて恐縮なのですが、その辺がよく分かりませんでした。慧解脱は無明からの解脱で悟りだと分かります。心解脱は禅定のことで悟りではないと解釈してよろしいでしょうか?

2010-12-20 03:59:37
@qteraq

@naagita 2011年1月号のpatipadaの47から49ページに「慈愛の心による解脱」という言葉があります。「慈愛の心による解脱」は慈悲の瞑想による禅定状態のことで、慈悲の瞑想による欲界の禅定のない状態では「慈愛の心による解脱」とは言わないのでしょうか?

2010-12-20 04:14:27
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

@qteraq 増支部8集に解説があります。1)慈心解脱(悲,喜,捨も同)を多修すれば、阿羅漢果に到達しなかったとしても死後、梵天に生じる。2)慈心解脱(悲,喜,捨も同)の禅定を多修し、四念処の禅定を多修して阿羅漢果に達する。ということで、アビダンマッタサンガハにあるように、

2010-12-20 10:12:59
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

@qteraq 慈悲の瞑想をしても、そこからヴィパッサナーに行けないというような話は経典にはないです。

2010-12-20 10:14:14
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

@qteraq それから、増支部十集には「比丘らよ、このように慈心解脱を修習すれば不還果に資する。但、有慧の比丘にして更に上の解脱(阿羅漢果)に通達するものを除く」とあるので、仏道を歩む人が慈心解脱を修習すれば、覚りに達するということです。

2010-12-20 10:34:03
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

@qteraq 基本的には慈心解脱という場合は、禅定に入っている状態でしょう。慈悲の瞑想は慈悲の瞑想で、それによって慈心解脱に達するかどうかは各人の精進によるのではないでしょうか?

2010-12-20 10:42:56
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

@qteraq カーラーマもラーマプッタも四聖諦は発見していなかったので、解脱は一時的なものでしかなかった(仏教の言葉で、心解脱、時解脱)。ブッダは解脱の完成(慧解脱)を説いた、ということでしょう。仏教で預流果に覚った人が禅定を学び心解脱に達すれば、より上の覚りに役立ちます。

2010-12-20 10:45:28
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

@qteraq 経典に記されている覚りのプロセスはアビダンマの説明よりは柔軟です。同じ禅定も、異教の人が修する場合と、仏道の人が修する場合では結果が違います。禅定状態に浸るか、禅定を智慧の足場にするかという違いです。仏教徒は煩悩から解脱した心を智慧を開発するために用います。

2010-12-20 10:52:54
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

@qteraq ですからお釈迦さまが仏教を学んでいる仏弟子に対して、「慈心解脱を多修してみなさい。解脱に達しますよ」と説法することは、ごく自然のことだと思います。また仏教をよく知らないバラモンも慈心解脱を修すれば心が柔軟になって仏教をより深く学ぼうという気にもなったでしょう。

2010-12-20 11:07:37
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

@qteraq 慧解脱の場合、禅定は必要ないです(アビダンマでは慧解脱でも瞬間定という心理作用が起こるとしていますが)。釈尊の説法を聞いて法眼が生じる(預流果に覚る)なんて場合は慧解脱です。慧解脱で覚った人も、瞑想修行で心を柔軟にしていたのだから、修行をサボるわけにはいきませんw

2010-12-20 11:23:52
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

@qteraq 「悟り」という言葉がけっこう曖昧です。初期仏教では預流果・一来果・不還果・阿羅漢果という四段階が慧解脱(と倶分解脱)で達する境地。修行のゴールです。修行のプロセスで体験する一時的な「悟り」は心解脱、時解脱(一時的解脱)とします。

2010-12-20 11:29:48
@qteraq

@naagita 大変分かりやすく説明して頂きありがとうございます。結局長老のお教えになる通り「慈悲の瞑想」と「ヴィパッサナー瞑想」で大丈夫ということが、説明して頂いた増支部経典引用の解説より分かりました。お釈迦様がそうおっしゃるならそうなのだと思われます。皆様が悟れますように。

2010-12-20 16:19:27
@qteraq

@naagita また忙しい方でおられるnaagita様から少なくないお時間を頂いてしまいすみませんでした。

2010-12-20 16:22:44
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

@qteraq こちらこそ勉強になりました。先ほど気づきましたが、釈尊は、慈心解脱で不還果に達するという場合も、「慈心解脱の禅定状態で七覚支を完成しなさい」と説明されています。(相応部大篇覚支相応)つまり、慈悲の瞑想で培った集中力を足場にヴィパッサナーしなさいということです。

2010-12-20 17:38:40
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

@qteraq ですので、慈悲の瞑想を完成して慈心解脱に達し、「無量の心」の境地に至っても、やはりその心ですることはヴィパッサナーなのです。ですから、やはり車の両輪のように慈悲の瞑想とヴィパッサナー修行を続けたほうがよいという、当たり前の結論に至りました。(^_^;

2010-12-20 17:39:55