自殺男の生涯は陰惨だった。 モササウルスの探求に人生をかけようとするもむなしく散り それどころか最低限の仕事に就くことすらままならず 家庭を持てる可能性は完全に絶たれていた。
2015-07-06 18:08:12しかしながら進化というものに関心があり、 NHKその他の野生動物ドキュメンタリー番組における ナレーションが脳内に染み付いているこの男からすると、 子孫の残せない個体は生物学的に存在価値のない負け犬なのであり
2015-07-06 18:08:46どの生き物よりも生存が有利となるはずである人間という種に生まれておきながら これまで38億年間続いてきた遺伝子のリレーが自分の順番で絶たれてしまう現実がおぞましくならず せめて醜悪なる自分というゴミ屑がこの世に存在した事実を残そうと
2015-07-06 18:10:29モササウルスの専門家に憧れ 果たせなかったその人生を手記にまとめて 文字情報に自己保存を委託し それを生まれてきた意味、仕事と自己満足し 後は流れの中に身を任せ 他には何も成さず何も残さず 飢えが自分を殺すまで じっと耐えていく方向で腹を括った。
2015-07-06 18:11:36しかしながら出版社を一社一社当たっていったところ 返ってくる答えは案の定自費出版の話ばかりであったので 自殺男はその時点でまた諦めてしまったのだ。
2015-07-06 18:12:27商品としての自費出版には最低でも100万前後の金銭が要求された。 自殺男にそんな資産はとてもなかった。 そして将来においてもできようがなかった。 やれやれ、結局自分はあきらめてばかりなのだな。 力のない自嘲に頬を弛ませながら自殺男は町を歩いた。
2015-07-06 18:13:34多くの親子連れが右往左往していた。 そのうちの一人の男児が、ウルトラマンの怪獣フィギュアを片手に 自殺男の足元に駆け寄ってきた。
2015-07-06 18:14:43続けてその母親が「あらあらこの子は」 と、半分はたしなめる事を もう半分は己が息子の可愛らしさに対する自殺男の反応を伺う事を目的ににじり寄って来た。 自殺男はうつむいた。
2015-07-06 18:15:47彼らは自殺男には無縁な平和で豊かで生産性のある世界に生きていた。 心理的ダメージを負った自殺男はこの世で唯一好きな居場所であった 大型レンタルDVDショップを訪れた。
2015-07-06 18:17:34そこで新しいホラー映画の類でも借りて帰って心の傷を癒そうかと考えたのだ。 大型DVDショップには同じく巨大書店が併設されていた。 そこでは数十万冊に迫る数の書籍が居並ぶ棚を埋め尽くしていた。 そしてやはりそのスペースも、親子連れで占領されていた。
2015-07-06 18:24:07自殺男はさらに陰鬱な気持ちとなった。 巨大書店にはスターバックスが併設されていて スターバックスを使用するに見合うブルジョアたちが買いたての書籍を 片手に一杯4,500円はするコーヒーを啜っていた。
2015-07-06 18:26:32生涯を通じて貧困にあえいだ自殺男は スターバックスに対してもはや本能的な恐怖心を抱いていた だがこうして覗き見るにどうやら書物というものは、上流階級者の使用品なのだから スターバックスと同様に 自分には立ち入ることのできない世界であるのだなとこうべをたれた
2015-07-06 18:28:16絶滅種として、ちっぽけな化石として その存在をこの世に刻むこと自体、今の自殺男には難しいようであった。 自殺男は家賃の滞納された自室に逃げ帰り現実から目を背けるべく不貞寝した だがそれでも残金を侵食するだけの不毛な朝は確実にやってくるのであった。
2015-07-06 18:29:39自殺男は通常の観念を捨てた。 自伝を残すためには出版社を通さなくてはならないという常識を捨てた。 調べてみるに、いわゆる書籍が書籍として認定される上での最低基準は ISBNという国際コードを与えられているか否かにかかっているらしい。
2015-07-06 18:33:21バーコード化されたそれが裏表紙に収められているかどうかが 単なる紙の束が書籍の資格を身にまとい書店の棚に 収まるための絶対条件であるのだという。
2015-07-06 18:37:12そしてそのコードを取得するにあたり 何か特別な資格は必要ないものの 経費としては32400程度がかかるようだった。 自殺男は震えた。
2015-07-06 18:37:45それは彼の1ヶ月分以上の生活費に相当したからだ。 ただそれでも、出版社に依頼しての自費出版分100万円よりは 大幅にコストカットできたこととなる。
2015-07-06 18:41:19残るは印刷代のみであるが それでも紙とインクだけであるのだから大したことはないだろうと あてずっぽうでたかをくくり 結果、自殺男は最後の最後に残されたなけなしの5万円弱をはたいて
2015-07-06 18:42:29薄っぺらな紙の束に、バーコードを貼り付けただけの 外見上はいわゆる同人誌となんら変わりない書籍もどきを作成した。 そして出来上がった不細工な本を片手に、自殺男は前記の大型書店に電話を入れた。
2015-07-06 18:46:20これはコミュニケーションに難のある自殺男にとっては死に近いほどの 苦痛を伴う作業であった。 「取次会社を経由してください」 彼は受付の女性にあっけなく門前払いされた。
2015-07-06 18:51:13彼のような不審者の用意した物品が相手にされるためには まずは「取次」と呼ばれる卸企業に納品するより他に道はないとのことであった。 自殺男は日本に数社あるその「取次会社」に電話を入れた。
2015-07-06 19:17:37「取引口座の開設できていない相手とは取引できません。中取次会社を利用してください」 彼のような信用の置けない新規参入者は、まずは「取次会社」と発行元の仲介を業務とする 「中取次会社」 なる企業の厄介になるより他に道はないとの話であった。
2015-07-06 19:19:06自殺男は中取次会社に連絡した。 「会社法人相手でなくては取引できません」 自殺男は会社法人を設立するための手続き方法について検索した。 会社所在地となる住所と10万円、一年当たり最低でも七万円の税金が要求されると書かれていた。
2015-07-06 19:21:51そこで自殺男は例のごとく、やはりすべてを放棄した 彼の目の前には命金と引き換えに出来上がった ISBNコード付き同人誌の山が、陰湿なインク香を撒き散らしながら聳え立っていた。
2015-07-06 19:33:23