真里亞の幸せとは、その拠りどころとなる魔法とはなんだったのか?
EP7より転載 最後に、神父様が言ったの。 「神は、何でも知っている、か」 「うん。だから真里亞は聞いた。……真里亞にはママしかいない。パパは、ない。それは、おかしくて悲しいことなの?、って」 http://knz00.tumblr.com/post/2529527830/ep7
2010-12-31 03:10:06旧約聖書 詩編139 主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。 座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。 歩くのも伏すのも見分け わたしの道にことごとく通じておられる。 わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに 主よ、あなたはすべてを知っておられる。
2010-12-31 03:59:18Laudate | 祈りのひととき http://www.pauline.or.jp/prayingtime/ps139.php より転載。
2010-12-31 04:00:33詩篇は旧約聖書なので、ここでいわれている主は父なる神であって、イエス・キリストのことではない、はず。 キリスト教の三位一体(父なる神(御主)、子なる神(イエス)、聖霊なる神)についてわかりやすいページがあったんだけど、ブックマークを忘れていたようです。
2010-12-31 04:08:16“マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した…” 説教・マタイによる福音書 http://j.mp/f7Rjf7
2010-12-31 04:13:06EP7での、ウィルとマリアの会話に出てきた聖書の該当部分はこのあたりだと思います。 一つは、神は“わたし”のすべてを知っている、ということ。 もう一つは、マリアが精霊の子を宿したように…ある結果だけをもって、原因を断定することはできない、と言うことだと思います。
2010-12-31 04:19:22私は消極的な無神論者ですし、精霊の子という表現を信じることはないと思います。そして、それと同じくらい、「マリアが他の男性と関係を持った」と決めつけることはできないと思っています。
2010-12-31 04:30:50まぁ、決めつける・つけないの前に。たとえ関係を持っていたとしても、罪にされる事ではないと考えています。あくまでこれは、ヨセフ個人の好みの問題でしかないのですから。 ヨセフ個人がどうしたいのか、どうありたいのかで決めればいいことであり。「法の下の罪」として追求するのは雑音でしかない
2010-12-31 04:38:08聖書に詳しくないのですが、この章の記述を読む限り、精霊の子を宿したとされるマリア自身の意志がどうであったのかはわかりません。なので、あくまでマリアに意志はないものとして話を進めます。
2010-12-31 04:41:06マリアの主張が無いので、実際にマリアが身籠もっていたのか、ヨセフの子じゃなかったのか、精霊の子だったのかはわかりません。 ただ、ヨセフは「二人が一緒になる前にマリアが身籠もった」という結果から見て、「他の男性と関係を持った」という前提を唯一の真実だと考えていた。
2010-12-31 04:58:41そこで登場したのが、主の天使。夢に現れて「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と告げる。 これを信じるかどうかは別にして、律法が真実だったその時代に、選択肢として使うこともできた。そういうお話だと、私は解釈しました。
2010-12-31 05:04:12“「マリアが処女」と言う点は旧約聖書のギリシャ語訳を引用するときに、ヘブライ語の「結婚適齢期に達した若い女性」に当たる語を、ギリシャ語の「処女」に近い語に訳した事が発端”http://j.mp/ebChbN らしいので、実際には、ふたりのあいだに関係があったのかもしれないですね。
2010-12-31 05:08:17神話だと男の神様が子供産んだりとかもあるみたいなので、あんまり深く考えない方がいいかもしれないですね。ショタ妊娠は神話の時代から始まっていたのだ!←結論
2010-12-31 05:15:08真里亞の話に戻る。マタイ書のヨセフの話から読み取れることは、どんなに確からしいことに思えても、それが唯一の真実とは限らないということ。何を信じるか、選んで決めるのは自分自身である、という事なのだと思います。
2010-12-31 05:18:11だから真里亞は、神父様の言葉を聞いて、「自分が何を信じるかを、自分はこれまでも決めてきた」ことに気がついた。そして、「だからこそ、自分が何を信じるか、自分で選んで決めることができる」事にも気がついたのだと思います。
2010-12-31 05:20:54「自分で何かを信じることを選び取れる」ということは、いろいろな選択肢があることに気づく事につながると思います。そして「自分はなぜ、この選択肢を選んだのか?」と考えることもできる。そこから、「自分はこの選択肢を選ぶことで、なにを望んでいたのか?」と考えることもできるようになります。
2010-12-31 05:25:44そして、自分の望みに気づくことができれば、その望みのために何をすればいいのか考えることもできるし、相談することもできるようになる。自分の望みに気づくことで、自分が何をしたいかと考えられることで、世界が広げることができる。 真里亞は、これを魔法の力だと考えたのではないでしょうか。
2010-12-31 05:31:40真里亞とベアトリーチェの魔法については、追加TIPS「魔女達の七夕は甘くない」にも例があります。 http://j.mp/cbvBnG
2010-12-31 05:34:52今いる境遇に関係なく、自分で選び、選択でき、自分自身に縛らないこと。これを真里亞は「幸せ」と呼んでいるのだと思います。 それが本当に幸せなのか、真里亞本人と他人の視点は違いますから、評価も違って当然でしょう。縁寿も言っていますhttp://tumblr.com/xnkrn77gc
2010-12-31 05:43:36結論:「自分で自分のことを決めている という事に気づく事=魔法。それに気づけば、幸せになれるよ」って事なのだと思います。 EP4の最後で縁寿がベアトに「魔法じゃない」と言ったのも、ベアトや真里亞が自分で決める事を放棄していたからなのだと思いますhttp://j.mp/hMJyDH
2010-12-31 05:55:48真里亞にとっての魔法やさくたろうの存在への依拠は、現実逃避っていう言葉で括られがちな印象を受けてきたけど、やっぱ逃避っていうネガティブな言い方をしたくない気持ちになる…真里亞なりのやり方で、強い意志の元で現実に立ち向かってたんだと思いたくなる
2010-12-31 10:22:20@zousyokuritsu 「逃避」という物言いも一つの側面からの見方に過ぎなくて、異なった視点から見ればもっと肯定的な要素は見えてくる筈だと思っています。エステコさんの仰る通り、真里亞の行動理念をそんな単純に、一方的に決めつける事なんて出来ないと自分も強く思います…!
2010-12-31 12:36:25