「郡評論争」から元嘉暦・儀鳳暦同時使用について考察する

まとめました。
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じねん @jinensai

弘前ねぷた見ながら生ビールぐびぐびしつつ考えてたのはなぜか「郡評論争」。弘前大学時代古代史で卒論書こうと思い、F教授についたが、4年次に某女子大へ転任されたため、私が弘前大学最後の弟子として取り残される格好になったのだが、F教授の恩師がどうやら坂本太郎さんらしいのだ。(続

2015-08-01 21:44:07
じねん @jinensai

承)これだけでピーンとくる方もおられるだろうが「郡評論争」で弟子の井上光貞と激論を戦わせた当事者だ。結果的に藤原宮出土木簡により井上側の「評」に軍配が挙がることとなったが(主に古田武彦さんの引用によるが)坂本太郎さんは自説を潔く撤回しつつも、なぜ書き換えたか疑問を呈している。(続

2015-08-01 21:56:17
じねん @jinensai

承)そこから「評」を九州王朝制定に引水する古田氏の平常運転を割り引いても、この「なぜ」の考察は論争結果をさておいても重大な問題を孕んでいる。古田氏の用語が適切だが「廃評立郡」の詔勅が書紀に無いのは致命的だ。古代人は愚かだから書き落としたというのはあまりも現代人の驕りに思える。(続

2015-08-01 22:08:05
じねん @jinensai

承)ミステリ界隈の諸氏にはもうアタリがついていることと思うが、歴史学もコアな学究サイドは相も変わらず「うぶ!なので、書紀の記述の信憑性への信仰は高い。中国の史書と矛盾があれば中国人を愚かな記述者にし兼ねない。だが、これはミステリサイドからは明らかである。叙述トリックなのだ。(続

2015-08-01 22:17:48
じねん @jinensai

承)「言い落とし」を読み手が補完することで、重度の催眠効果に陥っている。実態は苦しい言い逃れや杜撰な切り貼りなのに、読み手が恣意的に読み替えて自ら罠にはまりこんでいる。「かくあれかし」という願望の混在に自覚的にならなければ、この泥沼から這い出すことは不可能だろう。(続

2015-08-01 22:26:24
じねん @jinensai

承)これは書紀に留まらず、頻繁に名称や移築を繰り返し、正確な場所も特定出来ない寺院の数々や、富本銭と和同開珎、大極殿の柱まで移築された藤原宮から平城京など、国家規模の「隠蔽」事業の一環を成しているものだ。あったことを「なかったこと」にしようとしている。(続

2015-08-01 22:50:36
じねん @jinensai

さて、お腹休めたし銭湯入ろう。昨日から今日に掛けて「郡評」がらみであれこれ検証してたが、アウトプットはサウナの閃き次第かな。

2015-08-02 20:40:35
じねん @jinensai

承)以前「いわゆる「白亀元年調布」について」 m.togetter.com/li/720920 でも言及したことだが、王朝の並立はあったと考えるのが自然だろう。書紀はいわば「大本営発表」である。つまり他の王朝が主体となって制定したモノは主語を濁しているのだ。(続

2015-08-02 21:15:48
じねん @jinensai

承)「郡評論争」に決着を着けた(?)木簡にしても、例えば「庸」を表す字は「養」となっている。これは制定した王朝が、そう制定したからだろう。地名も「佳字」で上書きされる前は他の王朝に由来をもつ伝承と対になっていた可能性がある(ゆえに積極的に改称が進められる)。(続

2015-08-02 21:32:25
じねん @jinensai

承)「均田制」に準じた制度や律令も先行した王朝の後に近畿天皇家が追随していたと考えれば、「評」についての言及が書紀に全く載ってないのも頷ける。年号にしても天武天皇末年の「朱鳥」が持統天皇代でも使用され続けている(←萬葉集)ことが書紀には載っていない。改元の主体ではないからだ。(続

2015-08-02 21:44:04
じねん @jinensai

雨降ってきたので、とっとと帰宅。さて、続き。

2015-08-02 22:43:07
じねん @jinensai

承)「朱鳥」といえば「二中歴」と「萬葉集」では干支が一つズレていたりする。改元主体が近畿天皇家だとしたら、こんな矛盾は生じるはずがない。近畿天皇家が主導権を握るのは持統天皇4年、大伴部博麻を筑紫君薩夜麻らを帰国させるため自身を奴隷に売り払って資金を購った件を表彰してからだ。(続

2015-08-02 23:03:22
じねん @jinensai

承)この「スキャンダル」で白村江の捕囚から帰還した筑紫君薩夜麻の権威は地に堕ちる。それから二十日も経たぬうちに書紀中でも難解とされる元嘉暦と儀鳳暦をはじめて行うという謎の記事が続く。「はじめて」が改元主体の奪取だとしても、元嘉暦と儀鳳暦を両方使うという意味が分からない。(続

2015-08-02 23:15:42
じねん @jinensai

承)この矛盾には正直悩まされた。平時は新暦、農事は旧暦というような用途別の使い分けも想定したこともあるが違和感は解消されなかった。今回ようやくその解決法に気づいたのである。「白亀元年調布」でもつぶやいたが、暦・度量衡などと王朝は不可分である。つまり持統天皇は王を兼任している。(続

2015-08-02 23:33:19
じねん @jinensai

承)「そんなバカな!」な話をしているのは百も承知だが、例えばUKでスコットランドがユリウス暦、イングランドがグレゴリオ暦を使ってると仮定してみればイメージがわきやすいかも知れない。王は連合王国両方を兼ねているから、暦法を改定したいなら2つ併記して同時に施行する必要がある。(続

2015-08-02 23:45:24
じねん @jinensai

承)つまり持統天皇は元嘉暦を使用している国と儀鳳暦を使用している国の連合王国の王なのだ。倭暦(二倍年暦)は元嘉暦をベースにアレンジしたモノなので、九州・中四国西部+飛び地の大和盆地、儀鳳暦は大和盆地以外の近畿+東国といったところか。前者が「倭」、後者が「日本/蝦夷」であろう。(続

2015-08-03 00:12:12
じねん @jinensai

安定の寝落ち。続く。

2015-08-03 06:16:45
じねん @jinensai

承)そして「儀鳳暦」がそもそもおかしい。こんな名前の付け方は他にない。「麟徳暦」と同じなら「麟徳暦」で良いはずで、導入した際の唐の年号に置き換える意味がない。実際平安時代にはこの2つは違うものと認識されていた(wikipediaソース)。導入側が「麟徳暦」では不都合なのだ。(続

2015-08-03 06:24:29
じねん @jinensai

承)これまでの思索を踏まえれば「麟徳暦」は導入済み、即ち「評」と同様の事例と考えられる。上書きされたのだ。先行導入した王朝の事跡を、近畿天皇家は悉く滅しようとしている。そして、それを強権では行えず「ほのめかし」や「言い落とし」など叙述トリックで遂行している所に力不足を感じる。(続

2015-08-03 06:29:36
じねん @jinensai

承)その先行王朝を古田武彦さんは九州王朝に限定してしまうわけだが、多元的古代の提唱とは矛盾してはいないか。私は蘇我氏等を想定しているが、近畿天皇家の行動半径・関わり方を考えた場合、主語をぼかすだけで良い分自然な成り行きに思える。九州王朝の史書からの引用は考慮しなければならないが。

2015-08-03 06:35:37