安田浩一氏の「維県収容所」に関するTwitter記録

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安田浩一 @yasudakoichi

①先月、中国と米国を取材で回った。そのときのことを一部、Twitterに記録として残しておきたいと思う。

2015-09-06 01:34:06
安田浩一 @yasudakoichi

② 第二次大戦の勃発後、米国政府が在米日系人を強制収容所に隔離したことは知られているが、その報復措置として、中国在住の欧米人が日本軍によって拘束され、捕虜として収容所に入れられたことはあまり知られていない。日本軍は中国全土に6か所の収容所を設置した。

2015-09-06 01:35:47
安田浩一 @yasudakoichi

③ そのなかでも最大規模とされるのが、山東省にあった「維県収容所」である。同収容所には宣教師やビジネスマン、外国人学校の生徒など約2千人の欧米人が拘禁されていた。終戦後は建物の一部が学校として改装され、その一帯も都市化が進行したために、収容所の存在を知る人もほとんどいなくなった

2015-09-06 01:36:55
安田浩一 @yasudakoichi

④しかし10年ほど前から元捕虜の米国人らによって当時の記録や証言を集める運動が進められ、この8月、かつて収容所のあった場所で解放70年を記念する式典がおこなわれることになった。

2015-09-06 01:37:54
安田浩一 @yasudakoichi

⑤収容所の建物は一部が残っている。最近までは地元学校の敷地内で「資料庫」として使われてきた。 pic.twitter.com/mnW2JPsY2z

2015-09-06 01:39:46
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安田浩一 @yasudakoichi

⑥この建物も収容所の一部だった。こちらは地元病院職員の宿舎として使われてきた。 pic.twitter.com/5Vs5ZCx8Uu

2015-09-06 01:41:26
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安田浩一 @yasudakoichi

⑦8月17日、この場所で「収容所解放70周年」の式典がおこなわれた。米国、欧州各国から元捕虜とその家族ら約100人が集まった。 pic.twitter.com/fHIFjkJ185

2015-09-06 01:43:23
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安田浩一 @yasudakoichi

⑧現在、収容所跡の一角に、捕虜の名前が刻まれた碑が建てられている。最も多いのは米国人、次に英国人。宣教師、銀行員、記者、学生など、職業は様々。 pic.twitter.com/n9N6q5C48I

2015-09-06 01:47:29
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安田浩一 @yasudakoichi

⑨捕虜の中には1932年のパリ五輪の金メダリスト(陸上400メートル)エリック・リデル(英国人)もいた。リデルは終戦直前に同収容所で病死している。

2015-09-06 01:49:54
安田浩一 @yasudakoichi

⑩式典にはリデルの娘たちも招かれた。写真は私の取材に応える姉妹。彼女たちは宣教師として中国に向かう父親と横浜港で別れた。それが父親との最後の別れとなった。 pic.twitter.com/3M28GLvWR4

2015-09-06 01:52:43
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安田浩一 @yasudakoichi

⑪リデルの生涯は日本でもかつて公開された映画『炎のランナー』でも描かれている。しかしこの映画には収容所のことはほとんど触れられていない。

2015-09-06 01:54:29
安田浩一 @yasudakoichi

⑫収容所跡地には「70周年」の記念事業としてリデルの銅像が建てられた。 pic.twitter.com/qJIOTCpQbb

2015-09-06 01:56:31
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安田浩一 @yasudakoichi

⑬現在、エリック・リデルの生涯を追った新しい映画『ラストレース』が香港・米国の合作として製作されている。写真は主人公のリデルを演じた英俳優ジョセフ・ファインズ。彼も式典に招かれていた。 pic.twitter.com/dQSigJcD1v

2015-09-06 02:01:59
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安田浩一 @yasudakoichi

⑭ちなみに「維県収容所」は70年前の8月17日、米国の空挺部隊によって解放された。解放作戦を任されたのは米軍の特殊チームだ。メンバーは7人。そのうち2人は中国人と米国在住の日系人だった。

2015-09-06 02:06:09
安田浩一 @yasudakoichi

⑮写真はチームの一員だった王成漢氏。現在、貴州省貴陽市在住。王氏は四川大学の学生だった頃、英語が話せるといった理由で米軍の戦略情報局(OSS)に招かれる。即席の訓練を受け、解放の日にパラシュートで収容所に降り立った。 pic.twitter.com/hPs5Pj9quQ

2015-09-06 02:12:50
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安田浩一 @yasudakoichi

⑯そしてもう一人の東洋人は、日系人で構成されていた米軍第442連隊に所属していた永木正氏。彼は日本軍との通訳を担当した。写真の右側に写っているのが永木氏。 pic.twitter.com/xcL4zUJYFr

2015-09-06 02:16:12
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安田浩一 @yasudakoichi

17 永木は終戦後、米国に戻りコロラド州で農場主をしていたが、02年に亡くなった。写真は亡くなる1年前のもの。 pic.twitter.com/yVtFXA4FuK

2015-09-06 02:28:46
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安田浩一 @yasudakoichi

⑱写真は米国ニュージャージー州に住むメアリー・プリベイト氏。彼女も中国の外国人学校に通っていた頃、日本軍に拘束され、収容所に入れられた経験を持つ。戦後、成人してからは長きにわたってニュージャージー州議会の議員を務めた。 pic.twitter.com/8ljTKPeVIW

2015-09-06 02:33:42
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安田浩一 @yasudakoichi

⑲前出の王成漢氏や永木正氏ら「特殊部隊」のメンバーを探し当てたのが、このメアリー・プリベイトである。彼女は収容所の「出身者」として、戦後消息不明だった部隊メンバーの行方を追うことに執念を燃やしていた。 pic.twitter.com/nwM3z4wup2

2015-09-06 02:37:51
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安田浩一 @yasudakoichi

⑳ この8月、山東省維坊市の収容所跡地、当時の写真などを展示する資料館がオープンした。 維坊市はビールで有名な青島市から車で約2時間の場所にある。興味ある方はぜひ、足を運んでみてください。いわゆる「反日的」(嫌な言葉だ)な要素はほとんどありません。

2015-09-06 02:43:47
安田浩一 @yasudakoichi

㉑ 私は現在、元捕虜の人たちから聞き取りを進めていますが、収容所を管理していた日本の軍人を責める言葉が飛び出ることもほとんどありません。「悪いのは特定の個人ではなく戦争そのものだ」。多くの人はそう答えています。

2015-09-06 02:46:11
安田浩一 @yasudakoichi

㉒しかし実際には、捕虜に向けて食糧を鉄条網越しに"差し入れ"した中国人農民がスパイ容疑で日本軍に処刑されたり、電流の通った鉄条網に触れて感電死した米国人少年もいた。あまり知られることのなかった「維県収容所」の実態については、いずれ何かの機会に発表するつもりです。

2015-09-06 02:47:39
安田浩一 @yasudakoichi

㉒あ、大事な人を忘れていた。この人は当時、収容所の近くに住み、父親と一緒に収容所内のし尿処理を担当していました。天秤棒を担いで収容所に出入りしていたわけですが、実は捕虜たちにこっそり戦況を報告したり脱走者の手引きもしていました。 pic.twitter.com/xj2CRJyjw8

2015-09-06 03:01:50
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安田浩一 @yasudakoichi

㉔ちなみにこれは当時の収容所内部を写した貴重な写真です。この鉄条網には脱走防止のために電流が通っていました。 pic.twitter.com/gua8egrKQg

2015-09-06 03:16:53
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