風洞機械の刻む五線譜【短編】
地質学者のバルツエリオは道に迷っていた。灰土地域南部……わかる。竜芽山脈のふもと……わかる。風食らいの森……多分そこだ。それ以上詳しい自分の居場所は分からない。深い森の真ん中。目印の交易路を見失い、おおよそ人類の活動のあとさえ見つからない原生林を進む。 1
2015-10-03 13:26:25三対の翅を揺らし飛び交う巨大なカゲロウ。20メートルはあるだろう、巨大な樹木。苔の絨毯が広がり、熱帯にしては涼しい森の空気。快適だが、人間の住む場所ではない。猛獣や毒虫がいるため気が抜けない世界だ。「オーイ!」 声をあげる。何度目か分からない、救助を求める声。 2
2015-10-03 13:29:40諦めかけたそのとき、遠くから返事が来た。「どうしたー」 バルツエリオは思わず笑顔を浮かべる。この辺りは竜芽山脈を越える交易商人の通り道だ。運よく道の近くに来れたのかもしれない。返事をするのももどかしく、急いで声のする方へと走る。足元で黄色の両生類が跳ねた。 3
2015-10-03 13:33:15バルツエリオはてっきり交易路でも近くにあるのかと思った。ところが、目の前に現れたのは大きな岩山だった。深い森の中に小高い丘のように岩山が鎮座している。そしてそこにびゅうびゅうと風が吹き込んでいる。どうやら風の通り道らしい。そのたもとに小さなあばら家がひとつ。 4
2015-10-03 13:35:29とりあえず声の主を探す。「すみません、どなたかいらっしゃいますか?」 「ハイハイ」 声は岩山から落ちてきた。見上げると、穴だらけの岩山の穴の一つにやぐらが作られており、そこには一人の男が座っている。古めかしいというか、帝国では見られない民族衣装を着ている。 5
2015-10-03 13:38:35「すみません、森で迷ってしまったのです。どこか、人里に繋がっている道はありませんか?」 男がバルツエリオを見下ろす。髭をみつあみにした、奇妙な男だ。 「よく迷うんだよ。この森は。旅人やら、商人やら、盗賊やら。お前さんは何だい?」 「安心してください。学者です」 6
2015-10-03 13:42:13「話を聞かせてくれぃ。道案内の代金だと思ってさ。今日はここに泊まっていけ。もうじき日が暮れる」 そう言って奇妙な男はするするとやぐらから降りてくる。彼は腰に銃を提げていた。盗賊と渡り合って生きている証だ。見ない銃だ。古めかしいエシエドール帝国式の拳銃。 7
2015-10-03 13:45:09その晩二人は焚火を囲って話をした。男はカラセと名乗った。驚くことに、彼の一族は古代エシエドール帝国時代にこの森にやってきて、それから文明と隔絶した生活を送っていたのだ。迷い人からその都度情報を手に入れているという。そのために、話を聞きたがっていたのだ。 8
2015-10-03 13:49:53「森に移り住んだのは20人程度……今は俺一人になっちまった。後継者を見つけなきゃならん。お前さん、どうだい?」 「ハハ……僕はやりたいことがまだたくさんあります。カラセさん、こんな森の中で何をやっているのですか?」 「へへっ、よくぞ聞いてくれました!」 9
2015-10-03 13:52:40「この岩山は自然のものじゃない。ひとつの機械なんだ。風だけを必要とする装置で……毎日昼ごろに一定のリズムの音を鳴らすんだ。俺達一族は、その音を五線譜に記録し続けているのさ」 「それで、そのリズムはいったい何を意味するものなんです?」 カラセは困った顔をする。 10
2015-10-03 13:56:21「それが分からねぇんだ。最初の20人は知っていたのかもしれん。誰に命令されたのか、誰が風の機械を作ったのが。それが刻む音が何を意味するのか……だがよ。時間が経ちすぎたんだ。もう何も伝わっちゃいない。今では、五線譜にひたすら記録を続けるだけさ」 11
2015-10-03 13:59:26バルツエリオは奇妙には思ったが、決して馬鹿にはしなかった。風習、習俗、慣習。地質を調べるため各地を旅する彼にとって見慣れた光景だ。何のためにやっているか、他人には分からなくとも本人にとっては重要な精神的支柱なのだ。それを馬鹿にすることはできない。 12
2015-10-03 14:02:46受け継ぐというのは、役割や目的を超えたものがある。例えば帽子を被るという習慣だって、日差しが弱く無意味だったとしても続けるには他の理由がある。役割を超えた精神的なものがあるのだ。それからバルツエリオは最近の帝国について様々な話をした。それは不意に中断される。 13
2015-10-03 14:06:58ぽつり。バルツエリオの頬に雨粒が落ちる。すぐに大量の雨が風と共に吹き付けてくる。 「こりゃまずいなぁ、今までにない勢いだ」 二人はあばら家に退散した。雨の勢いは弱まることを知らず、暴風雨と化した。揺れるあばら家。屋根が吹き飛びそうだ。そこら中から雨漏り。 14
2015-10-03 14:10:21狂ったような風の音はいつまでも続いた。夜中、何かがガラガラと崩れおちる音がした。バルツエリオもカラセも、音の出所が予測できた。ただ、二人は揺れるあばら家の中で丸くなって毛布を被り、ひたすら嵐が過ぎ去るのを待つことしかできなかった。嵐は朝まで続いた。 15
2015-10-03 14:12:36朝日があばら家に開いた穴から差しこんでくる。バルツエリオもカラセも、魂が抜けたようにあばら家の中で茫然としていた。まるで嵐が魂を吹き飛ばしたように。鳥の鳴く声。屋根の一部が崩れ落ちた衝撃で、二人はようやく我に返った。よろよろとあばら家から外に出る。 17
2015-10-03 14:16:41やはり、岩山は崩壊していた。あばら家の反対側にある岩肌が、崩れ落ちて抉れているのだ。もはや風の機械としての機能は維持できないだろう。バルツエリオは「直せそうですか?」と聞こうとしたが、やめた。直せるわけがないのだ。どういう機械かさえ知らないのだから。 18
2015-10-03 14:19:04雨漏りが酷かったため、二人はすっかり濡れてしまった。乾かすために焚火をする。薪は雨を吸っていたため、斧で割って中の方から火をつけた。煙がもうもうと出て、ふたりは何度もむせる。カラセは小屋の中から紙の束を持ってきた。 「それは?」 「五線譜の記録だ」 20
2015-10-03 14:25:18「全部燃やす」 カラセは本気のようだ。 「いいんですか?」 「もはや全てが無意味さ」 次々と炎の中に投げ込む。そして二人で燃え上がる炎を見ていた。 「これからどうするんです?」 カラセは黙ったまま炎を見ている。しばらく考えた後、ゆっくり話し始めた。 21
2015-10-03 14:29:33「帝国の人間は、人生の転換期にこう言うそうだな。第二の人生と……。俺はその意味が分からなかった。人間の人生はひとつしかない。二つも三つもあってたまるかと。今でも言える。断言できる。俺の人生は一つだけだ。他にありはしない。古い人生、新しい人生なんて無いんだ」 22
2015-10-03 14:32:01