騎射の達人・呂布が生まれた万里の長城周辺の「農牧接触エリア」とは何か?曹操が禁止したその地の「絶火、寒食」習慣について

考古学では「農牧接壌(せつじょう)地帯」と呼ばれています。このエリアから広まった「寒食」(冬に冷たい食事を摂る)が、後漢の官吏や曹操によって禁止され、「中国人が冷たいビールを飲まない理由」になっていきました。
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巫俊(ふしゅん) @fushunia

手書きで赤兎馬描いたら、きっとひどいのが出来そうなので、ジオラマ風に写真を撮影しました。キルギス(中央アジア)輸入雑貨の店で買ったフェルト(羊毛)の馬です。風景画が家にあったので接写してみました。劉備「檀渓の川か、的盧よ、飛べ!」 pic.twitter.com/Ufn2KHISIM

2016-01-14 01:06:56
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巫俊(ふしゅん) @fushunia

劉備は、徐州時代より前の小勢力だった頃に烏丸騎兵を率いていましたが、だからといって、劉備が胡人だったとなる訳ではないです。

2016-01-12 12:40:18
巫俊(ふしゅん) @fushunia

呂布と董卓は、ともに長城地帯(農牧接触エリア)の出身で、騎射の達人だったと『三国志』に書かれていたはずですから、騎馬民の胡人や羌胡に常に対抗、いつも対処していた中国の西北辺境社会の「対抗騎兵文化」(遊牧民とイコールではない)の一員だと見て良いと思います。

2016-01-13 00:46:53
巫俊(ふしゅん) @fushunia

cathay.ce.cn/person/201006/… 「北京青年報」を引用しているサイト(中国語)によると、董卓と呂布の義父子関係は、三国時期にあっては孤立した例で、董卓が西方の羌胡と密接な交際をしていたことが関係しているとありました。

2016-01-12 12:22:49
巫俊(ふしゅん) @fushunia

劉備の養子の劉封など、宗(自分の家)の祭祀を継がせるために、異姓の養子を取る例はありましたが、その場合は彼が「劉封」になっているように、改姓する習慣になっていて、董卓と呂布のように呂性はそのままにして、「父子と為るを誓う」のは異例だということです。

2016-01-12 12:30:17
巫俊(ふしゅん) @fushunia

「義父子」の習慣は、次の南北朝時代になると、非常に盛行していき、唐代の安禄山の場合は降伏した8000人をまとめて仮子にした記述があるなど、胡人の習慣(漢人に影響していく)だとあります。

2016-01-12 12:35:13
巫俊(ふしゅん) @fushunia

昨日は、たまたま「建州統一期のヌルハチ政権とボォイ=ニャルマ」(増井寛 也、『立命館文學』、 2004年)という論文を見つけて、女真(後金)の歴史を調べていたんですけど、ヌルハチの親族関係が面白かったです。

2016-01-12 13:05:54
巫俊(ふしゅん) @fushunia

論文「建州統一期のヌルハチ政権とボォイ=ニャルマ」本文はリンク先で見れます。 (ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/5…

2016-01-14 16:20:37
巫俊(ふしゅん) @fushunia

さいしょは、せいぜい100人程度の日本語で言う「家の子・郎党」のリーダーに過ぎなかったヌルハチですが、どんどん勢力を拡大していって、アイシン王朝(後金)を建国。明朝の討伐軍を撃破した「サルフの戦い」が有名です。ヌルハチの死後、清朝が成立し、ヌルハチはその太祖と呼ばれました。

2016-01-12 13:14:46
巫俊(ふしゅん) @fushunia

この論文によると、ボォイ=ニャルマとは 「「家の人」を原義とした以上、たとえ主家に隷属する非血縁成員(中略)であるにせよ、元来「親族」同様に意識され、遇されたに相違ないのである」「それがアハaha(奴僕)身分に属しながらも、主人ejen の擬制的家族成員として身内同然に遇された」

2016-01-12 13:20:28
巫俊(ふしゅん) @fushunia

とありまして、若きヌルハチに従っていた数人の従者(グチュ)についても、モンゴル文化と同様に「その首領と共に生活し、これと悲喜を共にする」「言葉の全き意味における『家人』であった」という存在で、「グチュが主君の「親族」に擬されたのも別段異とするに足らない」とあります。

2016-01-12 13:27:30
巫俊(ふしゅん) @fushunia

時代はだいぶ離れていますけども、非血縁の兵隊に恩愛を施していて、一家のような私兵を率いて洛陽に入城してきたイメージがある董卓を思い出します。

2016-01-12 13:36:01
巫俊(ふしゅん) @fushunia

史料的には、董卓が自分の将校たちには(名士に与えたような)高位を与えなかったという記述くらいしか、思い出せないんですけど、それは彼らが董卓一家の家奴だからで、董卓とは恩情で結ばれていても、六郡の良家(ぎりぎり士大夫?)の生まれの董卓とは身分が違い、董卓自身は名士を尊重したようです

2016-01-12 13:42:25
巫俊(ふしゅん) @fushunia

こういう関係の中に、董卓と呂布の「義父子」関係を位置付けることができるでしょうか。董卓と呂布の関係は破局して、終わってしまいましたが、胡人に関係するにせよ、関係しないにせよ、乱世において非血縁の主従関係の「普通ではない親密さ」が劉備などの人物の背中を押した気がします。

2016-01-12 13:50:50
護倭中郎将⛩董卓⛩すぐる @darql

@fushunia 董卓に関しては、後漢書列女伝で、皇甫規の妻に「君は羌胡の種」とか言われてしまっていますしね。馬騰や馬超のことも考えると、あの辺はもはや混血地帯で、華夏人と異民族との境界もあいまいになっていたのではないかと、私も思いますね。

2016-01-13 01:08:10
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@darql 「呂布は異民族」だと決めてかかって、人種論を展開するのはいかがわしい話ですが、史料的制約を受けて「呂布と異民族、何も関係ないんじゃ?」という方向に行きそうになっていたのも、ちょっぴり気になっていました。皇甫規の妻は儒教の鉄人みたいな女性で、董卓悔しかったでしょうね

2016-01-13 01:16:04
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@den_buo 呂布が捕縛されたときに、劉備が曹操に「丁建陽と董太師に仕えたことを忘れたのですか?」と言っているので、てっきり演義で設定されてるように呂布は丁原の義子だと思っていたのですが、さいしょにリンクした「北京青年報」に、正史に義子記述があるのは董卓とだけとありました。

2016-01-13 01:25:51
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@den_buo 最近の遊牧国家の研究者は、「騎馬民族」という歴史用語を人種論に基づくものとして避けて、使用しておらず、代わりに「遊牧国家」「騎馬遊牧民」と呼んでいるそうです。「騎馬遊牧民」の誕生は紀元前9世紀と新しく、それ以前は遊牧民の祖先も農牧多角経営をし、一部は城郭民でした

2016-01-13 01:08:14
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@den_buo こちらこそ、ご教示勉強させて頂いています。中国の伝説だと、下半身が馬の民が出てきたりとか、かなり異質な印象も抱くのですが、遊牧民の祖先の農牧民(牧畜民)は、青銅器と馬車を東アジアに持ってきた人たちで、その刺激から中国王朝(夏殷)が生まれたことが分かってきました。

2016-01-13 01:51:10

中国人が冷たいビールを飲まない理由

巫俊(ふしゅん) @fushunia

以前に、中国人が冷えたビールや弁当を絶対に食べないという習慣を調べたときに、魏晋時代の「寒食禁止令」がこの習慣の起源らしいと気付いたことがあります。

2016-01-12 13:52:08
巫俊(ふしゅん) @fushunia

「寒食」(かんしょく)というのは、冬の寒い季節に、暖かい火を一切使用しないで暮らす習慣で、暖かい食べ物もNGという、厳しい習慣です。

2016-01-12 13:56:56
GEO ジオ@中国古典オタク @japanchinaGEO

そもそも東洋医学的にも冷たいものを食べるのがアウト。 twitter.com/fushunia/statu…

2016-01-13 12:59:20
巫俊(ふしゅん) @fushunia

中国では、春秋時代の介子推(かいしすい)が山で焼け死んだことから、介子推のことを思って、火を使わないで暮らすと理解されてきたものですが、これは北方の胡人や春秋戦国時代に「中国化」した戎狄の文化に由来すると考えられているようです。

2016-01-12 13:59:41
巫俊(ふしゅん) @fushunia

一定期間、極寒の暮らしのなかで火を断つので、老人や子どもがバタバタ死んでいきます。魏晋時代の中国の政府は、この習慣を止めさせようと、何度も禁令を出しているのですが、この辺には『傷寒論』などの寒さに注意する医療観念も関係してそうですね。

2016-01-12 14:02:12