マシュー・・・「赤毛のアン」にみる親の理想像

マシューは世間体で考えれば、女性とまともに話すこともできない、ヘタレに見えるかもしれない。しかしアンの心を救済し、様々なことにチャレンジする勇気を与えたのは、マシューなのかもしれない。物語だが、考えさせられることは多い。
9
shinshinohara @ShinShinohara

「赤毛のアン」を読んだ若い頃、マシューは「優しいけど、男としてはヘタレだなあ」とバカにしていた部分があった。しかし若い人の指導に当たるようになって年月を経ると、マシューは一種の理想の保護者像ではないか、と思うようになった。

2016-01-25 20:36:36
shinshinohara @ShinShinohara

アンはみなしごで、それまでひどい待遇を受けていた。空想の世界に逃避するより、自分の精神を保つ方法を知らなかった。そんなアンの心を本当の意味で救済したのは、マシューだったのではないかと思う。

2016-01-25 20:38:55
shinshinohara @ShinShinohara

マシューはアンをまるごと承認してくれる存在だった。「アンのやることは間違いないよ」やさしくうなづくマシューの言葉は、アンにとって何よりの精神安定剤だったろう。自分の存在を丸ごと受けとめ、肯定してくれる!物語とはいえ、もしマシューのような存在がいれば、よい子に育つのは間違いない。

2016-01-25 20:41:31
shinshinohara @ShinShinohara

アンが喜べば共に喜び、悲しめばオロオロとどうやって慰めたらよいか戸惑う。そんなマシューがアンの心を救い、努力するための精神的基盤になった。物語ではあるのだが、マシューのような人が一人いれば、その子は精神的に非常に救われる。

2016-01-25 20:43:29
shinshinohara @ShinShinohara

子どもは「ねえ、みてみて!」と親にひっきりなしに声をかける。そして親が「すごいねえ!そんなことができるようになったんだね!」と喜ぶ。その承認を得たことで、子供はさらに次のステージに進んで親をビックリさせようとする。マシューは実の親ではないが、実の親以上に承認欲求を満たす存在。

2016-01-25 20:45:26
shinshinohara @ShinShinohara

山崎豊子「大地の子」も物語だが、主人公の親代わりとなった中国人男性は、まさにマシューと同じ役回りを演じている。主人公が幸せなら喜び、苦難に会えば何かできないかと必死になる。主人公にとって最も敬愛すべき「父」となっている。

2016-01-25 20:47:26
shinshinohara @ShinShinohara

子どもはいつまでたっても子ども。たぶん、親に対して子どもは、自分のことをずっと承認していてほしい。「お前がそう決めたなら、それでいいよ。お前がそうするというのなら、間違いない」そう優しく頷いてくれたら、いくつになっても勇気をもてるのかもしれない。

2016-01-25 20:49:15
shinshinohara @ShinShinohara

子どもは多分、生涯、親に承認し続けてもらいたいものなのかもしれない。しかし実際には子供も年を取って知恵がつき、親の振る舞いに文句をつける。親も子供に「小生意気な」と説教をする。だからそう簡単にしっくりはいかない。

2016-01-25 20:51:33
shinshinohara @ShinShinohara

しかしアンとマシューの関係のように、子供にとって親(あるいは保護者)は別段「すごい人」である必要はない。自分の存在をまるごと承認してくれる存在で居続けてほしいのではないか。その存在でいてさえくれれば、年を取って仕事ができなくなっても、ずっと生きていてほしいと願うものかもしれない。

2016-01-25 20:53:30
shinshinohara @ShinShinohara

「そうか。お前が考え抜いてそうしたいと思ったなら、そうしてごらん。お前の考えることなら、間違いないよ。」 そう言ってくれる人がいたら、子供は必死になって考え抜くだろう。本当に間違いがないように。自分を承認してくれた人を、悲しませないように。

2016-01-25 20:54:55