箱庭眼鏡

西住みほの一人称のようでそうでないもの。『履帯の下』もお読み下さい。
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里村邦彦 @SaTMRa

肉まんが忽然と出現していたのである。西住みほは、ひどく不安な心持ちになった。

2016-02-09 18:01:09
里村邦彦 @SaTMRa

練習で、一時間半ばかり遅くなった。レジ横の蒸し器の肉まんは、この時間であれば綺麗に売り切れているはずであった。不信を抱えたまま新聞コーナー、西住みほの中で疑問は焦点を結ぶ。置かれている順番が違う。なるほど、この前の時間、シフトに入っている人間が変わったのだ。気を利かせたのだろう。

2016-02-09 18:05:17
里村邦彦 @SaTMRa

菓子パンの置かれている位置が、少し前側に偏っている。上の方の棚だけだ。背が低い。それなら、大洗女子の生徒、アルバイト。この時間帯に来ているということは、戦車道履修者ではない。知らない相手かも。でも悪い人じゃない。肉まん、どうしようかな。西住みほの迷う間に、残り一つは売り切れた。

2016-02-09 18:08:37
里村邦彦 @SaTMRa

小学校のころ、西住みほは、ひどく頭のいい子供だった。子供である以上に、頭のいい子供だった。勉強が人一倍できるとか、そういったことはなくて、むしろ友達を作るのは下手くそだったけれど。それは、実家が有名だからだ、というばかりが理由ではなかった。

2016-02-09 18:10:47
里村邦彦 @SaTMRa

一度だけ。戦車の友達ができたことがある。戦車に一緒に乗って、一緒に試合をして、尊敬するおねえちゃんと試合をして。負けて。彼女はどうしたって、おねえちゃんに、西住まほに勝ちたかったはずなのに、どうしてか、負けた彼女は満足そうで。そして、おかあさんは、ひどく西住みほを叱りつけて。

2016-02-09 18:12:56
里村邦彦 @SaTMRa

おかあさんが、声を荒げた、怒鳴りつけたわけではなかった。けれど、理由なく、西住みほの言葉は撥ね付けられた。強く、とても強く。おねえちゃんも味方になってはくれなかった。おねえちゃんも、おかあさんと同じ顔をしていた。知らない人の顔をしていた。西住みほは混乱した。心底から混乱した。

2016-02-09 18:14:46
里村邦彦 @SaTMRa

何を信じていいのか、 西住みほにはわからなくなった。けれど、西住みほは頭の良い、とても頭の良い子供だった。だから。

2016-02-09 18:16:08
里村邦彦 @SaTMRa

きっと。西住みほが壊れてしまったのは、そのときだったのだ。

2016-02-09 18:16:45
里村邦彦 @SaTMRa

理解できないから。知らないからわからないから。それはとても、とても怖いことだから。なんであのとき、彼女が笑っていたのか。おかあさんもおねえちゃんも、どうして迷わないでいられるのか。西住みほにはわからなかった。だから、考えた。西住みほは、とても頭の良い子供だったから。

2016-02-09 18:18:37
里村邦彦 @SaTMRa

材料はあった。方法もあった。知らず知らずと叩き込まれた、あるいは天稟も手伝った、子供離れした戦術眼は、そこにあるものを解釈し、次の動きを見出すために、十分すぎるほど機能した。目に映るのが誰なのか。そこにあるのが何なのか。何を望んで動いているのか。西住みほは、疑うことをやめた。

2016-02-09 18:21:20
里村邦彦 @SaTMRa

もちろん矛盾は見逃さない。矛盾しないならば、それは真実だ。疑う余地はどこにもない。先を読む。一手先を読む。二手先を読む。限界を読む。西住みほは信じることを止めた。いつしか目に映るものすべてが、確たる現実に変わっていた。人も、戦車も、その他のものも、大して違いはしなかった。

2016-02-09 18:24:40
里村邦彦 @SaTMRa

調べ上げることは必要だった。諳んじることは必要だった。覚え込みさえしたならば、世界は確かさを取り戻した。けれど人だけは苦手だった。幾人もの思惑が絡むと、何をしてもいい場になると、加速度的に世界はわからなさを増していく。それが、それだけが、西住みほの恐怖だった。

2016-02-09 18:27:05
里村邦彦 @SaTMRa

向いていない。致命的に向いていない。こんなに臆病な私には、戦車道は、西住流は、どうしたって向いていない。正しいことを確信して、ひたすら前へ進んで行ける、母や姉のようには。とても。無理だ。西住みほは、決してあそこへ届かない。けれど、家名はそこにある。戦車道からは逃げられない。

2016-02-09 18:28:58
里村邦彦 @SaTMRa

勤め上げた。それが正直なところだった。ジュニアハイでの下積み、高校に入り副隊長職。姉の思惑はよく見えた。敵の思惑もよく見えた。姉の指すまま命ずるままに、どんな作戦も成し遂げた。そうあるだけで許されるなら、西住みほは安堵していた。あのときまで。あの雨の日まで。

2016-02-09 18:30:59
里村邦彦 @SaTMRa

通信機から悲鳴が聞こえる。大丈夫。落ち着いて。通じていない。通じるわけがない。戦車の中は安全だ。被弾しているわけでもない。ただわずかでもハッチが開けば、砲塔内は浸水する。西住みほは認識する。あのままでは、誰かがハッチに触れる。あの味方車両は全滅する。助けを求める思いのあまり。

2016-02-09 18:34:28
里村邦彦 @SaTMRa

誰も信じないだろう。試合を続けようとする、そう認識し、西住みほは動いた。ひとり飛び出した。味方を助けようとした。相手方の砲が火をふく、白旗が上がる。そのあとどうなるかは、おおよそもはや読みきれていた。 ふさわしくない私は、ここで終わらせられるのだ。

2016-02-09 18:37:18
里村邦彦 @SaTMRa

大洗に転校できたことが、正直、信じられなかった。あのまま家に閉じ込められるのが、道理だろうと思っていた。あるいは外聞が悪いからかもしれない。西住みほには読みきれないほど、世間付き合いというのは巨大だ。だけれど理由がわからない。だから、西住みほにとって、家族は未知の恐怖なのだった。

2016-02-09 18:39:17
里村邦彦 @SaTMRa

準決勝まで来た戦車道大会。ここを勝ち上がれば、必ず黒森峰がそこにいる。そのとき皆は何を思うだろう。西住みほにはわからない。だけれど今のチームメイトは、自分を信じてくれている。それだけは確信が持てていた。だから。北へ向かう恐ろしく寒い船の上で、西住みほは白い息を吐く。

2016-02-09 18:42:06
里村邦彦 @SaTMRa

できることをしよう。それが、西住みほに許されている、ただひとつのことだ。

2016-02-09 18:42:42