さーて、作戦術については某所でさんざ書いてきたので、今更新たなことは書きにくい。とはいえ、「某所」を知らない人も多いとこの間気付いた。なので気が向いたときに書いていこうと思う。
2011-01-27 00:53:17作戦術とは何ぞやといえば、「戦略と戦術の間を埋める術策」といえよう。これは即ち、「戦略」というよう語及び概念と、「戦術」という用語及び概念ができて初めて可能になった考え方だ。
2011-01-27 00:57:22ということは、「戦略」と「戦術」の区別が定義された後で、「作戦術」が出てきたことになる。実際、これはプロイセンの軍事思想家ビューローが「戦略」と「戦術」を区別する上で言い出した。
2011-01-27 01:02:59「戦略」と「戦術」の区別についてはまた議論されていくが、その間に微妙な領域があることも認識されていた。具体的には、ナポレオンの用兵の解説者たるジョミニが、「大戦術」と名づけている。
2011-01-27 01:09:01なお、大兵団の機動について大モルトケは「operativ」という用語を使用している。とはいえ、まだこの時点では新たな視点というわけではなかった。
2011-01-27 01:16:06ロシアは当時から広かった。国境はヨーロッパにもあるし、中央アジアにもあるし、極東にもある。ツァーリにとって、「戦略」とはこの広大なロシアと数多くの隣国との関係を、自国に有利なようにすることだった。
2011-01-27 01:25:15一方、「戦術」とは何だったか。「戦場において部隊を運用する術」であることに変わりは無い。しかし、その「戦場」は「戦術」で統制できる範囲だったのだろうか
2011-01-27 01:30:57満州に於いて日本軍は連戦連勝とされた。しかし、その損害はロシア軍を常に上回っていた。「戦場」では日本軍は強かったが、それは多大な損害を前提としていた。一方、ロシア側はどうしたか。
2011-01-27 01:37:56ロシア軍のクロパトキン将軍は、常に後退する事で日本軍の軽侮をかっていた。しかし、実際はどうだったろうか。日本軍は会戦の度に損害を積み重ね、その補充ができないうちに新たなロシア軍と交戦した。
2011-01-27 01:43:48ナポレオンのモスクワ遠征に対するクトゥーゾフのように、「存分に侵攻させよ」というつもりだったのかもしれない。しかし、それはツァーリの認めるところではなかったし、兵士の士気にも影響を与えた。
2011-01-27 01:46:17