氷下の天使#2 氷下の約束◆3
_海へと注ぐ川は幅も狭く、流れも穏やかだった。川岸にはうっすらと雪が積もり、空を切り取る高い針葉樹がそびえている。 森の空気は透き通っていて、川のせせらぎだけが響いていた。苔のふかふかした冷たい森。土の晒された小道が川岸に沿って伸びている。 51
2016-02-22 17:34:18_意外にもはやく、彼女は見つかった。川辺に身を預けて、打ち上げられたようになっている。背中の翼は濡れ、いくつも羽が落ちていた。裸のまま、死んだように動かない。 「ごめん、君の約束の場所に、連れていけなくて」 ベルシルムは彼女の隣に跪く。膝が泥で濡れた。 52
2016-02-22 17:38:23_沈黙。先に口を開いたのは、彼女の方だった。 「ごめん、もう帰るよ」 「どこへ」 ベルシルムは、静かに彼女を抱き上げる。彼女は疲れた顔で空を見上げている。 「帰るよ。ここじゃないどこかへ」 「それは、行くっていうんだ」 53
2016-02-22 17:42:57_力のない天使を抱き、ベルシルムは遺跡へ向かって歩いていく。まるで引きずるように、ゆっくりだった。目的の遺跡は影も見えない。 太陽は南中に差し掛かり、雪解け水で世界は輝いているのに、二人の間には氷山の氷のような冷たさがあった。フィルとレッドも手伝う。 54
2016-02-22 17:47:21_天使は苦悶の表情で身をよじり、抵抗する。 「やめろ……やめろ!」 力のない手でぽかぽかとベルシルムを殴る。 「時間が無いんだよ……もう、わたしは終わりだ。心を失ってしまう。心を失ったら、綺麗なものも、美しいものも、感じなくなってしまう」 55
2016-02-22 17:51:37_死霊となった天使の身体は鉛のように重く、一歩踏み込むごとにさらに重くなる。死んだ場所から離れるほど、それは強くなるのだ。もちろん妄執も、怒りも、苦しみも。 「心を失う所を……みっともない姿を見られたくないの。きっと、わたしは怒りで我を忘れて、全てを傷つけてしまう」 56
2016-02-22 17:57:15_とうとうベルシルムの歩みが止まり、膝をつく。静かに苔の地面に天使の身体を安置した。彼女はふっと笑った。ベルシルムは後悔を隠さずに言う。 「約束してくれ。いつか、君を遺跡へ、花の咲く場所へ連れて行くから。それまで、待っていてくれ」 「待つよ」 57
2016-02-22 18:04:23_人間は自分の命を神に捧げることで、使徒へと昇華することができる。その逆で、使徒の魂を神に返せば、人間に転生できる……こともある。 全盛期のグレイソフィアだったら、確実に人間に転生できただろう。いま、女神は滅び、運よく転生できても赤子や老婆になるかもしれない。 58
2016-02-22 18:08:53_ベルシルムは天使を捧げるための道具を腰のベルトから取り出し、地面に並べる。いつも船上で繰り返した作業も、今回ばかりは身が張り裂けそうに辛い。 「きっと人間になれるよ」 「ええ、わたし待っているから」 最後に短い言葉を交わして、目を閉じる天使。 59
2016-02-22 18:13:16【用語解説】 【死霊浄化】 死体や霊魂を安らげる場所へと送り、現世とのつながりを断ち切る儀式。宗教的なものと、そうでないものがある。神に捧げる場合、捧げられた死体や魂は神の一部となり安らぎ、儀式を行ったものに神はお礼を授ける。死後の世界は「彼方の国」とも呼ばれ、死後魂はそこで憩う
2016-02-22 18:24:30