南三陸町戸倉の資料修復状況報告:2016年3月
はじめに
東日本大震災から5年目を迎えた今、現在も進めている津波被災資料修復(南三陸町の三浦さんよりお預かり)の進捗、新しく判明した事などを、以下連投にてお知らせ致します。 震災直後からの修復活動につきましては、多くの皆様からのご支援・ご寄付を賜りました。ご報告と共に厚く御礼申し上げます
2016-03-12 18:43:36経緯は下記を参照 「南三陸町戸倉の資料の修復記 」togetter.com/li/859552 「津波被災史料の修復について(中間報告) 」 togetter.com/li/801609 「八甲田山雪中行軍遭難資料館訪問記 」 togetter.com/li/874305
2016-03-12 18:46:48お預かりした資料は段ボールで数箱分。内容は非常に多岐にわたり、(1)神仏、葬礼関係史料、(2)近世古文書、(3)和算書、(4)明治・大正期教科書、(5)漁協資料、(6)葉書、書簡、(7)八甲田山遭難事件関係資料、(8)家族、家計資料、(9)その他、という分類に収まりそうである。
2016-03-12 18:52:51祭礼・宗教関係資料
まず、こちらの一枚刷りから。「天理神尊像」というらしいが、「内務省免許」の印があるので戦前期の物。お預かりした当初はボロボロの断片で全体像が分からなかったが、修復してもらったところ、こんな絵姿になった。残念ながら発行元不明。 pic.twitter.com/fPeN4hMqa9
2016-03-12 19:02:20次の一枚刷りは、「仙台開創三百年祭紀念大祭典山鉾之図」(作画印刷・宇角新之助/明治32年印刷)。この山鉾を仕立てた仙台祭の開催は、この仙台開府300年を節目とした明治32年が最後となる。旧藩時代の町単位で山鉾が造られた。 pic.twitter.com/6zS7xRtpSY
2016-03-12 19:16:23山鉾の幾つかを拡大して紹介。「大町四丁目 伊達政宗公ヨリ片倉小十郎 白石城ヲ賜ル躰」/「肴町 章魚ト鯉ノ瀧登リノ躰」/「常盤町 東一番町 風流踊屋臺」(参考文献:政岡伸洋『仙台の祭りを考えるための視点と方法』、仙台・江戸学叢書4) pic.twitter.com/40q4iL6Btp
2016-03-12 19:31:49どういう由来か分からないが、ポケット版の新約聖書(年代不明)も出てきた。 pic.twitter.com/3YUSepZVRu
2016-03-13 11:44:20あとは、石巻の梅渓寺(牧山の上にあるあのお寺)で出した経文(年代不明) pic.twitter.com/vxRIy3Ho86
2016-03-13 11:49:16明治34年の宮城県下陸軍大演習記念地図
次は、明治34年に宮城県下で行われた陸軍の特別大演習の関係地を描いた「特別大演習紀念地図」(文園堂、明治34年)。名取郡以北、磐井郡付近まで描かれている。一般向け販売地図としては稀覯地図ではないかと思う。 pic.twitter.com/AK8BJeRtpR
2016-03-12 19:59:57破損、かすれのひどかった部分の拡大。宮城郡、松島湾付近になる。この地図もまた、元々破損していたところに津波を被ったものだから、相当痛みが激しく、当初は地図の表面、それも一部分しか確認できなかった。ところが、修復を進める内に → pic.twitter.com/dsCX9svLcs
2016-03-12 20:23:20裏面にも印刷のある事が判明。(文字が判別できる様に修復方針を変更。)そこには大演習に参加した将校、下士官の一覧が両軍に分かれて番付形式で記載があった。なお、中央に「統監部 審判官長」として記されているのは「元帥 陸軍大将 大山巌」 pic.twitter.com/7jxTXVIO8W
2016-03-12 20:31:18地図の由来と八甲田山遭難事件
そして、この地図の出された明治34年10月で思い出した事。演習のわずか2ヶ月後の明治35年1月に、あの八甲田山の遭難事件が起きる。その視点で番付を眺めると、確かに第五連隊もこの演習に参加していた。参加者の一例として水野忠宜の箇所。 pic.twitter.com/GmqUBbbh1N
2016-03-12 20:58:12これに気付いた事で、なぜ大演習地図を三浦家が所蔵していたのかも予想が付いた。後に紹介する三浦十吉(重吉とも)もまた、この第五連隊に属していて演習に参加していたのであろう。その様子を見聞するための情報源、あるいは記念として、三浦家では地図を購入したのであろう。
2016-03-12 21:02:13八甲田山遭難事件については、既に多くの先人が検証を進め、紹介されている。とはいえ、200名近い犠牲者を出した事故でありながら、殆どの兵卒は東北の田舎出身、個人的な記録や資料すら残らない地位と年齢の若者たちであった。その中にあって、三浦重吉の資料は津波を被りながらも奇跡的に残った。
2016-03-12 21:19:40お預かりした資料の山を見ていると、「重吉」さんと「十吉」さんの2名が一族にいたのかと思う様な記載があちこちにあり、しばらく混乱していたが、2枚の卒業証書・学習証書が出てきた事で、同一人物であった事が判明。共に明治13年6月生の記載。 pic.twitter.com/xXEopB1q4L
2016-03-12 21:41:48戸倉尋常小学校の設立が明治24年(水戸辺と折立の2つの小学校の合併により誕生)だから、三浦十吉はその草創期の卒業生。南三陸町の歴史資料としても貴重な証書だろうと思う。これらもお預かりした時は、他の書類とゴチャゴチャになって津波をあびていて、修復後にこの文面を確認した。
2016-03-12 21:50:31