天皇の意義は存在する事にあり

千坂恭二氏のツイートをまとめました。
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千坂恭二 @Chisaka_Kyoji

右翼に一番欠落しているのは、右翼の存在根拠でもあり、右翼にとっては最も重要な天皇論だろう。右翼は、ただ天皇を信奉する心情があるだけだが、天皇を取り囲むシステムからすれば、そのような心情だけでは通用せず、無力化されよう。右翼が駄目になっている原因だ。右翼に必要なのは天皇論に尽きる。

2016-05-03 10:16:36
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji

かつては、天皇を「玉」と捉え、大義の手駒にするという立場があったが、このような「玉」論的立場では右翼には変革は無理だろう。なぜなら「玉」は常に当為ではなく存在の方にあるからだ。大義の根拠とすべきは「玉」ではなく「歴史」であり、歴史の起源だろう。

2016-05-03 10:25:52
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji

刑法というものも、よく見れば無底や無根拠を孕んでいる。つまり、刑法には究極的には存在する根拠が無いというように。刑法の最大の罪は内乱罪だが、内乱罪には外部性がある。つまり、内乱側が勝利した場合、内乱罪は成立するのかということだ。内乱罪は刑法における神秘主義的無底になろう。

2016-05-03 11:43:23
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji

全国学協は、1970年前後の全国学園闘争期にバリケードの解除や反ストの動きを展開したが、その運動様式や運動論は、民青的であり、当時、新左翼の全共闘にも参加していたJASCO(日本学生会議)からは「右翼の民青」と揶揄的に批判されていた。この「民青」という批判は示唆するところが多い。

2016-05-03 17:23:42
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji

日本会議は、保守の共産党のようなものだろう。その前身の全国学協も、右翼民族派の内部でも「右翼の民青」と揶揄されていた。そうだとすれば、日本会議をバックにする安倍政権と、共産党が動員をかけている反安倍の運動の様相が見えてくるが、ここで必要なのは、やはり「反帝・反スタ」となる。

2016-05-03 17:56:49
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji

三島由紀夫の1970年前後の右翼民族派の学生運動に与えた影響とは、一言でいえば、民族派における実存主義ということだろう。しかし三島以降、実 存主義では最早通用しないが、実存主義以降が無く、それ以前の黴の生えた本質主義への規範的復古あり、それが右翼の民青たる全国学協の足跡ともなる。

2016-05-03 18:57:39
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji

天皇の血統性を批判する声が、リベラルから市民左翼あたりまでにあるが、だからこそ皇統は、グローバリズムの外部たり得るのだ。むろん、これは、伝統的な国体論がいうような皇統の高貴性とは関係がない。血統は民営化されないということなのだ。

2016-05-04 18:15:09
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji

保守派の中に、「陛下の真意は?」と言う者が少なからずいる。大御心の要請のつもりなのだろうが、天皇の真意にしろ大御心にしろ、そのようなものを求めること自体が大間違いというものだ。天皇は、存在すること、その存在において始原を現在化していることに意義があることを忘れてはならない。

2016-05-04 18:31:48
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji

今上帝は、始原の現在化だが、その現在化が血統に基くということは、その現在化には経済が入り込む隙がなく、先験的に超民営的であり、その存在が資本主義の外部だということでもある。左翼も、もし本当に資本主義を批判したければ、このことを熟知する必要があるだろう。@Chisaka_Kyoji

2016-05-04 18:39:14
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji

血統に基く皇統など神話だとリベラルや市民文化左翼は批判するかもしれない。しかし、神話は否定されるべきものなのか。リベラルや市民文化左翼に近い現代グラムシ派ともいうべきマルクス主義者のE・ラクラウとC・ムフは、神話を強い凝集力とし肯定的に捉えている。@Chisaka_Kyoji

2016-05-04 18:46:52
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji

天皇を批判する左翼も、逆に天皇を肯定する右翼も共通して間違っていることは、天皇を君主と捉えているところにある。左翼の君主制批判、右翼の天皇親政論もその産物だが、天皇は君主ではない。だから天皇と共和制は対立的なのではなく共和制を可能とするのは天皇なのだ。@Chisaka_Kyoji

2016-05-04 18:56:26
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji

誤解のないように付言しておけば、君主ではない天皇は、元首でもなければ、戦後憲法がいうような象徴という鵺のようなものでもない。常に現存の天皇が現在化している始原は、その始原神話において何者とされているのか、何者として肯定されているのか再認識すべきだろう。@Chisaka_Kyoji

2016-05-04 19:06:08
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji

日本会議の正体は、極右とかファシストというのではなく、保守のスターリン主義だ。その意味では、ナチスとかを例に出したりする批判やその右翼性を批判する見方は的外れであり、共産党と同類のスターリン主義的な対質や政治への取り組み方を批判すべきだろう。

2016-05-05 13:47:44
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji

現代の政治は、政治というより行政だが、政治が行政化し、行政ではない政治が困難な場合、そのような政治が行き着き、身にまとう衣装は、宗教か美学になるだろう。

2016-05-05 14:00:48
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji

生活から戦争を批判する立場は、人間の生を考える場合、もっともであり、かつてからあり、これからもなされるだろうし、それなりの説得力もある。しかし、生活からの戦争批判は、戦争には届かず、戦争を無くすことは出来ない。戦争は生活ではなく政治の産物であり、政治と生活は同じではないからだ。

2016-05-05 21:47:48
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji

日本にある天皇論は大半が左翼のものであり、しかも天皇を君主とするコミンテルン・テーゼの影響の遺制にあるものが大半だ。それに対して右翼は天皇を敬うか情緒的な天皇観ばかりで社会科学的な天皇論がない。右翼に社会科学は不要だというのか。現在の右翼が保守に絡められ駄目な原因はここにある。

2016-05-06 09:50:14
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji

自分本位で私利私欲に耽る人間がいる。それがあまりにも極端な場合は、批判的対象にもされるが、自己本位の私利私欲とは何だろうか。それは神の属性ではないか。神は森羅万象を自己本位な私利私欲の対象としている。しかし神の私利私欲は博愛を呑み込んでいるので単なる私利私欲にはならないのだろう。

2016-05-06 11:13:49
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji

では現人神とされた日本の天皇はどうか。天皇は神であると共に人間という両面を持つとすれば、その身体は神であり(神を化身させるための現世的な器)、その意識は人間といえる。ということは、神としての天皇は無言で無謬だが、人間としての現身は有言で無謬ではない。@Chisaka_Kyoji

2016-05-06 11:24:41
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji

天皇の神性における重要な要素は、高天原からの天孫降臨という神話と、血統による子孫がなす先祖(始原)の保証である。つまり、現人としての現存在である現天皇に内属し、現天皇を天皇たらしめている神話と血統、それを化身させ体現している身体が天皇ということになる。@Chisaka_Kyoji

2016-05-06 11:29:45
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji

だから天皇は、ただ存在し、血統を絶やさないことが重要で、それ以外のことは、神性天皇に身体を器として提供している人間としての現天皇の、神ならぬ人間としての言動となる。敬うことも批判することも自由だが、その自由は神性天皇に依拠して可能となるといえる。@Chisaka_Kyoji

2016-05-06 11:35:30
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji

高天原からの天孫降臨を神聖なものとして実体化してはいけない。それは、始原の存在根拠の思想であり、現実は、何処からかの、あるいは外部からの来訪ということになり、天孫降臨ということは来訪者ということだ。つまり素性不明者なのであり、神性の要素はそこにある。@Chisaka_Kyoji

2016-05-06 11:41:45
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji

天皇を信奉するのも否定するのも自由だが、生活を超えて目的的な意識や思想、政治や表現に生きる者は、天皇の内実を把握すべきであり、そうでなければまともな信奉も、まっとうな否定も不可能となり、低次元の盲信か誹謗にしかならないだろう。@Chisaka_Kyoji

2016-05-06 11:49:15
千坂恭二 @Chisaka_Kyoji

だから、もう一つ言っておけば、戦前の国体論や皇国史観はもとより天皇批判に到るまで、全て駄目だといえる。明治から敗戦までの天皇は、君主的属性を帯び、その神性は君主としての天皇の絶対性でしかなかったからだ。つまり敗戦までの天皇は人間だったのだ@Chisaka_Kyoji

2016-05-06 11:54:41